日本機械学会 機素潤滑設計部門ニュースレターNo. 1019947月)
外国事情 −米国編−

バークレー随想記

キヤノン株式会社(当時) 前野 隆司

 

 早いもので、アメリカから戻ってきて2年が経つ。常春の地バークレーの穏やかな四季が懐かしい。春には梅と桜が同時に咲き、夏には霧がサンフランシスコ湾を覆うのを、研究室の窓から眺めたものだ。
 私は1990年7月から2年間、カリフォルニア大学バークレー校(UCB)コンピュータメカニクス研究所(CML)に研究員として留学していた。CMLUCBの機械工学科内に設けられた産学共同の研究機関であり、情報機器におけるメカトロニクスの先端的研究が行われている。91年当時の構成人員はAdministrator (理事)のBogy教授を始め教授12名、大学院生42名、ポストドクター4名、客員研究員6名だった。主な研究テーマは磁気ディスク装置のヘッド・メディア間の接触、空気膜潤滑、振動、摩擦、摩耗の解析や、光ディスク装置の学習制御などである。
 私はオートフォーカス1眼レフに用いられているリング型超音波モータを会社からCMLに持ち込み、そのロータ・ステータ接触メカニズムの解明、接触部における空気膜潤滑の解析などの研究を行った。ちょうどCMLに蓄積された精密測定技術や接触解析技術を適用して面白い成果を上げることができ、研究面で有意義な留学生活だった。
 また、大学の研究環境の日米の違いを体験できたことも印象に残っている。まず、設備の違い。日本の企業の測定機器やコンピュータの充実度を1とすると、日本の大学のそれは残念ながら0.1程度かも知れない。これに対し CMLではざっと10である。高級な機器が所狭しと並ぶ恵まれた環境だった。
 それから教育法。修士及び博士課程の学生はかなりの量の単位を取得しなければならない。それぞれの講義は宿題が多く試験も厳しい。成績が将来の初任給に反映されることもあってか学生たちは必死に勉強する。そして、彼らが本格的に研究を開始するのは日本よりも遅く、博士課程に入ってからである。専門の知識や問題解決法を十分に学び基礎力を確立した後に、ようやく自分の研究を開始するわけだ。研究テーマは、ターゲットから目的、進め方に至るまで基本的には学生が決める。指導教官はあまり細かいことに口出しをしない。授業にろくに出ず研究の方法論も学ばずに、教授から与えられた研究を行っていた自分の大学時代とは大きな違いである。基本を体系的に広く深く教え、個別の研究については何も教えずのびのびやらせる。これが、アメリカが多くの独創的な研究者を生み出した秘訣なのではないかと思う。
 また、UCBの人種の多様さには驚かされた。私は、ほとんどの学生が白人という状況を予想して渡米したのだが、現実には3分の1がアジア系、3分の1が白人、残りが少数民族という人種構成なのだった。世界中からの留学生も多く、キャンパスには雑多な言語が行き交っている。まさに人種のるつぼである。この混沌とした中にいると、人種や国家間の問題が克服された未来世界にいるような興奮と安堵感を覚えたものだ。リベラルな風土のバークレーは、新しい世界のための実験の場なのかも知れない。
 私生活では、ロス暴動の恐怖から教会の人々の優しさ、人種のこと、自然保護のこと、社会福祉のこと、余暇やレジャーのことなど、人生観が変わるほど多くのことを考えさせられた。総括的に言えば、やはりアメリカは自由の国なのだと思う。いくつになっても新しいことにチャレンジする、陽気で自由な人々がいる。子供のように純粋な夢と理念を持ち、前向きに、しかも楽しみながら生きる人々がいる。もちろん日本にない社会問題も存在しているけれども、人々はそれらを直視し解決しようとしている。近年悪い面がクローズアップされがちなアメリカだが、この懐の深い自由の国はまだまだ日本にとって学ぶことの多い国なのだと思う。
 以上のように私にとってアメリカへの留学は研究面のみならず公私に渡るあらゆる面で自らの価値観を見直すことのできた有意義な体験だった。日本的な見方しか知らないにもかかわらずそれを当然と思っていた留学前の自分が井の中の蛙であったことを思い知らされた2年間は、私のこれまでの人生の中で最も充実した時期だったと言っても過言ではない。これからも私はアメリカのような夢のある生き方をしたいと思う。自由な心で理想を求め、科学技術の進歩や日本の国際化、世界の発展と繁栄のために微力ながら貢献して行けたらと思う。

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