あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

10 ジェフの教会

  日曜日の朝、バークレーのはずれの平均的な住宅街の一角にある小さな教会へ行くことが僕の習慣となっていた。朝の静かな空気の中、こぎれいな教会の建物の中で、そこで知りあった心優しい人たちに囲まれて賛美歌を合唱していると、母なる神がそばにいるような安堵感を覚えたものだ。

  アメリカへ行く前から、僕はキリスト教に大いに興味を持っていた。アメリカはクリスチャンの国だと思ったからだ。アメリカには多くの宗教が混在している。だが、プロテスタントによって建国されたことや、大統領が就任する際に聖書に手を置き宣誓することなどから明らかなように、基本的にはクリスチャンの国だといってもいいだろう。

  アメリカを理解するためにキリスト教は鍵になる。僕はそう思っていた。

  また、日本では宗教に対する意識が希薄である。僕自身も、宗教については漠然とした知識しかない。そこで、アメリカはどうなのか、知りたかった。

  つまり、全く興味本意な理由から、僕はキリスト教に近付こうとしていたわけだ。

  そして偶然、ある日本人クリスチャンとめぐり合うことになった。名はケン。もちろん彼は日本人の名前を持っているのだが、皆から愛称でそう呼ばれていた。ムーミンが黒ぶちのセルフレームの眼鏡をかけたような感じの、温厚そうな青年だ。

  彼とは、渡米して間もないころ、バークレーの語学学校で知りあった。彼は日本で大学院哲学科を卒業後、牧師になるために渡米してきたという。語学学校の後にはゴールデンゲートブリッジの近くにある神学校に進学していた。

  日本では町田にある教会に通っていたという。そしてアメリカでは、町田の教会と姉妹関係にある、その教会に通っていた。

  僕は、ケンに誘われ、この教会に通うようになるのだった。

  実はその前にも何度か通った教会はあった。ある日バークレーの町を歩いていると、UCバークレーの学生らしき1人の黒人に呼び止められた。キリストに興味はないか、と。興味はある、というと、週末に大学の校舎でチャーチをやるから来ないか、という。

  まだ渡米後2、3日の、英語も良くわからない頃のことだ。当然、誰一人友人もできていなかった。そんな時に僕に話しかけてくれる人がいたことは嬉しかった。アメリカで人に話しかけられたはじめての経験だった。黒人と話すのも生まれて初めてだった。

  彼の名はジェフといった。身長が185センチはあるだろう。肩幅も広く、大きかった。目つきは鋭く、笑うと白い歯が光る。今思えば心優しいジェフなのだが、その時は正直言って怖かった。

  チャーチをするとはどういうことなんだ。教会の動詞形なんて知らないぞ。良くわからないが、キリスト教らしい。いや、だまされているのかも知れない。焼いてくわれるかも知れないぞ。こいつは悪そうな顔をしているし。だが、キリスト教に興味はあるし、どうしよう。

  まあ、大学内だから大丈夫だろう。キリスト教への好奇心は恐怖に勝り、僕は週末のチャーチへと出かけていった。教えられた場所は北門近くのノースゲートという古い木造の校舎の中にある大きな階段教室だった。部屋に入ると、そこには50人近い学生が集まっていた。黒人、白人、アジア系。さまざまな人の熱気があった。そこでは、普通教会で行われるような礼拝や、聖書やジーザス(キリスト)に関する議論が行われていた。チャーチという動詞は礼拝を行うという意味なのだった。彼らは、非常に活気があって激しい。だが専門用語だらけで、みな早口で、何をいっているのかさっぱりわからなかった。アメリカのキリスト教というのはこんなにもエキサイティングなのか?しかしなぜ教会でなく校舎で礼拝を行っているのだ?

  もう少し状況を把握したいと思った。そこで僕はそれから何度かジェフと連絡をとり、大学の校舎でのチャーチに出かけていった。

  ジェフには、聖書や神について丁寧に説明してもらったばかりでなく、チャーチへの行き帰りのついでに生活用品を買う店を教えてもらったり、何十局もあるFM放送局の中からお薦めの局を聞いたり、ラップのすけべな歌詞を解説してもらったりした。後に出会ったたくさんのクリスチャンと同様、陽気で心優しい男だった。

  何度目かに、オークランドで行われたチャーチに行った。そこはやはり教会ではなく、大きな講堂のような所だった。集まった人は数千人もいただろうか。バークレーの校舎の時をはるかに上回る熱気だった。そこには日本人も数人いた。その中の1人、サンフランシスコの大学に通っているという人が自分たちについて説明してくれた。それでようやくどういうことかわかった。

  彼らはクリスチャンサイエンスというキリスト教の一派だった。日本語には、新興宗教という、あまりに大きく漠然とした分類があるが、いわばこれに含まれる宗教だ。キリスト教の主流であるカトリックやプロテスタントなどには歴史を経て確立された聖書やキリスト、マリアらへの解釈があるが、これらを受け入れず、聖書を科学的に分析して独自の解釈を加えようとする一派だったと記憶している。

  解釈の内容を正確に思い出せないが、積極的に勧誘を行い信者を増やすことが重要だと強調されていたことが印象に残っている。一般論になるが、いわゆる新興宗教によくあるあり方かも知れない。

  何だか、新興宗教なのか、と思うと急激に興味を失ってしまった。僕はプロテスタントに接したかったのだ。そう思ってから、ジェフたちとは疎遠になってしまった。ジェフには電話で、もう君たちのチャーチには行かないことにした、告げた。彼は、残念だが、また興味を持ったらいつでも電話してくれ、と寂しそうだった。何だか一方的に友人と絶交したような後味の悪い思いが残った。

  後にソルトレイクシティーに行った時に接したモルモン教もキリスト教の一派だった。彼らも親切で優しい人たちだった。帰国後接した物見の塔の人達も優しかった。なぜ彼らは優しいのだろう。それから、なぜキリスト教にはこんなに多くの宗派があるのだろう。2000年の歴史の中で様々に分化したのだろうか。

  日本の仏教にも多くの宗派がある。また、今の日本は宗教ブームだそうで、多くの宗教が乱立している。

  僕にはわからない。世の中にはどうしてこんなにもたくさんの宗教があるのか。

  どれが本当で、どれがまやかしなのか。それともすべてが本当なのか。嘘なのか。なぜいずれももっともな教義があるのか。そして信者はなぜこうまでも本気なのか。

  どうして僕のように宗教と無縁の人もいれば、深く拘わっている人もいるのか。

  学校では、ほとんど宗教について学んだ覚えがない。物理学や生物学と相反するようにも思える。にもかかわらず、歴然と存在している。

  いずれにも、信ずるに値する、僕にはわからない何かがあるということなのだろうか。



前へ


目次に戻る