あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

15 ゲーム

  クリスチャンと僕との関係は、神を第一に置くか科学を第一に置くかという相違ではなく、神を絶対的な者と信じる人と、何物にも絶対的なものを見付けられない自分との対比なのだった。僕にとっては、科学も、宗教も、さらには超能力や占いや運といったものも、同様に、並列的に、非絶対的なものでしかないのだった。いずれも正しいかも知れないし、正しくないかも知れない。絶対的なものを持たない以上、何物をも絶対的に否定することはできないのだ。はっきりと確実にわかっていることは実は何もないのだ。

  寂しいものだ。何しろ自分には何も本質的に信ずるものがないのだ。子供の頃感じた、巨大な宇宙に一人残された孤独感がよみがえってくる。できるものなら何か信ずるものが欲しい。

  今の宗教ブームも、科学進歩第一主義の限界を意識的にあるいは無意識的に感じ取った人達の、僕と同じような喪失感の帰結なのかも知れない。

  では、信ずるもののない僕らは何のために生きているのだ。この人生とは何なのだ。

  ゲームなのではないかと思う。目的のないゲーム。本質的には目的は実は何もなく、個々人が勝手に自分の目的を設定しつつ駒を進めてゆくゲーム。

  独創的であることを目指してもよい。出世でもよい。金持ちでもよい。いい人でもよい。悪い人でもよい。非凡でもよい。平凡でもよい。人生の長期的ビジョンを持って、それを追求してもよい。あるいはその日その日を刹那的に生きてもよい。自分でルールを決めて、自分のコマを進める、目的のないゲームなのではないか。

  人間は自分を正当化する生物だ。殺人犯でさえ、自分は悪くない、自分に殺人を起こさせるに至ったあいつが悪いのだ、あるいは社会が悪いのだ、というふうに自己正当化するという。

  僕も、創造的であらんとする生き方が優れていると思っていた。目的意識のある人生がいい人生だと思っていた。自分の創造したものが世に出て世界の歴史に小さくても足跡を刻むことに意味があると思っていた。やる気のない人間や刹那的な人生は劣っていると思っていた。しかし、すべてが相対的で不確実な世界で、他人のゲームにけちをつける権利は誰にもないのだった。同様に、自分のゲームの論理を他人に押し付ける権利も誰にもないのだ。

  すべての人が、その人なりのゲームを進める世界。ルールのないゲームの世界。

  そんなふうに思い始めると、僕は人生の無常に悩むというよりも、むしろ肩の荷がおりて気が楽になったように思う。

  僕のゲームは、楽しいゲームにしよう。何をやってもよいのだ。好きにすればよいのだ。何も怖いものはない。

  僕は、自分を取り巻く世間の様々な束縛から解放され、自由になった気がした。



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