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以前お答えいただいた時、先生が「<私>が情報である」とお考えになっておられる事についてですが、質問させて頂いてよろしいでしょうか。
客観的な物質世界から構造的・論理的に演繹していくと、「私」の部分までは到達しえても、その次の<私>と<主観>には大きな隔たりがあるように感じてなりません。 「私」と<私>との対応関係は、物質世界と情報空間の(個人的には、因果関係という形で両者が対応しているような気がしますが)写像のような関係であると考えていいと思われますか?
突然の質問不躾かとも思いましたが、先生のお考えいただければ幸甚です。 |
No.22 - 2004/11/20(Sat) 16:53
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「私」も<私>と同様クオリアを伴う情報なので,両者の構築困難さ(容易さ)のレベルは同じようなものだと思います。 |
No.24 - 2004/11/21(Sun) 00:04
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ご返事大変ありがとうございます。 なにか、自分勝手に質問して先生の貴重な時間を消費しているようで非常に心苦しいのですが、私だけでなく、世界中の<私>の、心のハードプロブレムに対する理解の一助になればと思っています。
先生のお考えでは,<私>は自己意識のクオリア、「私」は「意識」である、とされていますが、「私」=「意識」もクオリアで構成されているということでしょうか。だとすれば,僕の今回の質問は、『<私>や「私」といった情報空間上の構成物(クオリア)と、「自分」や脳といった物質的な構造物との対応がどのようになされているか』と言った方が適切だったと思います。ごめんなさい。 時間的、空間的に離れた所で再現された「自分」のコピー群は、各コピーに対応する情報構造が同一である限り、多対1の対応関係を持ってもいい気がするのですが・・・。 主観が固有に思えることの原因は、その<私>のクオリア(情報構造)が固有であることに由来するのでしょうか? |
No.25 - 2004/11/21(Sun) 11:03
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時間的、空間的に離れた所で再現された「自分」のコピー群に対応する「私」や<私>は「自分」の一部であるので,他の個体の「私」や<私>にはなりえませんし,前にも書きましたように,多数の「自分」はできた時点から感覚入力が異なる(たとえば目で見る景色が異なる)わけですから,当然「私」や<私>は異なるのだと思います。 |
No.26 - 2004/11/22(Mon) 21:54
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丁寧なお答え有難うございます。
先生のご返事を元に、読み返させていただきましたが、 P118-119にある「錯覚」に関する記述に関して、どうしても理解に至らない 部分があります。 いずれの解釈が、先生のご意見にあたるのでしょうか? もしくは、また別のご意見なのでしょうか?
@主観的経験およびその主体(生物に限定されない)が錯覚によるもので、 クオリアが錯覚によるものであることを含め、実際には存在しない。 A<私>や「知情意」といったクオリアは錯覚であるが、 主観的経験およびその主体の存在は否定されない。 Bそもそも、「存在するかしないか」ということ自体を 問題とすることが間違っている。
僕も先生と同様に、「自分がなぜ今の自分であるか」ということに対して 子供の頃から疑問に思っていました。 これまで、各方面の方の著作を読ませていただきましたが、 初めてこの疑問について明確な見解を持たれていると感じ、 いろいろと質問させていただいております。 ご容赦ください。 |
No.27 - 2004/11/24(Wed) 09:34
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こちらこそ,何度も丁寧に読んでいただきありがとうございます。 錯覚についての私の意見はAです。 錯覚図形を見たとき,主観的にはその図形を認知した!というクオリアが存在すると実感されるように,私や知情意についてのクオリアも,主観的には存在していると考えます。 客観的に観測できないと存在とはいえない,と言われてしまいますと,Bということになりますが・・・・・・。 |
No.28 - 2004/11/24(Wed) 14:10
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ご回答ありがとうございました。 主観的な事柄が存在するといえるかどうか、悩ましいところです。 情報に関する定義をもう少し勉強することにします。
ありがとうございました。 |
No.29 - 2004/11/25(Thu) 10:50
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