+ 心のB B S +

(No Subject) / norton3rd 引用

ようやく、「脳はなぜ心を作ったのか」が届いたので、呼んで取り合えずの感想文をNAN'sBARのmsg1539に入れておきました

No.54 - 2005/01/17(Mon) 12:09

Re: (No Subject) / maeno 引用

ご感想をありがとうございます。
大筋は合意,というか,思ったとおりでしたか。
確かに,過去の哲学者や宗教家や科学者が同じようなことを言っている,というご指摘を色々な方から頂いています。西洋と東洋,能動と受動,天動説と地動説のように対立図式があれば必ずどちらの立場もあるのでしょうが,もう少しこっち側の人が増えれば世の中も少し良くなるのかも,という気がしたりしています。
釈迦の時代にはこっち側の人がもう少し多かったんですかね。いや,やっぱり少なかったからお釈迦さまの価値があったんですかね。。。

No.55 - 2005/01/18(Tue) 11:52

Re: (No Subject) / おずおず 引用

この掲示板の形式には長すぎると思われたので、...。

No.56 - 2005/01/20(Thu) 20:59

Re: (No Subject) / maeno Home Email 引用

http://cgi.members.interq.or.jp/wild/nan/cgi-bin/wforum.cgi?no=1543&reno=1541&oya=1541&mode=msgview&page=0

にご返事を書き込みました!

No.57 - 2005/01/21(Fri) 11:19

Re: やっぱりちょっと長いけど... / おずおず 引用

頂いたお返事にまた返事を書き込みました。
でもあの本についての話題はやっぱりここで進めた方がみんなのためにも良いと思いますので、ここに再掲します。
---------------
> > バインディング問題は「こびと達」のみで説明できるのではなく、「こびと達のネットワーク」ではじめて説明できるものだと思うのです。(ボク)

> 私ももちろんそう思います。そのように書いたつもりでしたが,伝わっていなかったらすみません。(先生)

ボクの方こそ言い方が間違っていました。
先生はいつも、小びと「たち」が行っている、という言い方をしています。小びと「たち」は、小びとではありません。そこまでは分かっているのです。

ボクがあの本を読んで物足りなさを感じたのは、「小びとたちが連係プレー行っている」という記述のその先、「どんな風に」連係プレーを行っているか、ということの、具体的な記述なのです。それが省略されているから、くつろいでいるときと試験中のときの連想ゲームが全く違ったものになる理由や、実際の思考は連想ゲームと違いちゃんと方向性を持っていることの説明が見えてこないのです。そしてバインディング問題はまさに、ここに隠れていると、ボクは思うのです。


> > なぜ無意識下でエピソード記憶をすることが出来ないのでしょう?なぜ「取捨選択し、まとめることはこびとだけでは出来ない」のでしょうか?
>
> http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc0501.html
> の例で言うと,会社内の社員のこまごました愚痴まですべて社史に記述するのは煩雑だし社史が膨大になって検索できないからです。

なぜ「取捨選択をする」か?を聞いているつもりはなかったのですけど...。
なぜ「取捨選択は無意識化では出来ない」のか?なぜ、「取捨選択は小びと達では出来ない」のか?
別の言い方をすれば、「意識」とは何か?
というところなのです。

ここでいったん、投稿します。

No.58 - 2005/01/21(Fri) 22:12

Re: (No Subject) / 藤田英親 [関東] Email 引用

横レス失礼いたします。
意識もエピソード記憶も、脳内の機能であるのだから、取捨選択しまとめているのは、当然その機能を担ったこびと(もしくはこびとたちの一群)では?
社史編纂をしているこびとがいるはずだと思います。

でもその特定のこびとが「意識」なのでも「私」なのでもなくて、
編纂された社史を、逐次こびとたちみんなで読んでる状態が意識なのだと思うのですが・・・。

社史編纂室長のこびとから、よく見えるところで働いているこびとの仕事は、意識にのぼるし、結果の行動は随意運動に感じられ、よく見えないとこで働いてるこびとの仕事は無意識にとか、不随意に行われているように感じるって事ではないでしょうかねー。

No.59 - 2005/01/22(Sat) 00:14

Re: (No Subject) / maeno [関東] Home Email 引用

おずおずさんにお答えしようと思ったら藤田さん! お久しぶりです。
編纂された社史はすでにエピソード記憶ですから,編纂予定の,いままさに社史に書き込もうとしている会社の主要な出来事を見ている状態が意識,ということですよね。
確かにおっしゃる通り,受動的に注意し(awareし),体験し,記録するのが意識だ,と拙著に書きましたが,厳密に言うと,体験している部分が意識で,記録するのは意識を補佐する小びとですね,きっと。

それから,おずおずさんへ。こっちにも書き込んでおられるのに気づかず,
http://cgi.members.interq.or.jp/wild/nan/cgi-bin/wforum.cgi?no=1546&reno=1544&oya=1541&mode=msgview&page=0
に返事しました。

No.60 - 2005/01/22(Sat) 00:35

逆かな? / 藤田英親 [関東] Email 引用

> 編纂された社史はすでにエピソード記憶ですから,編纂予定の,いままさに社史に書き込もうとしている会社の主要な出来事を見ている状態が意識,ということですよね。

そこが違うんじゃないかと・・・
編纂予定の出来事を見てるのが、社史編纂室のこびでとであるのだからそこで「体験している」となると、そのこびとはどうやって体験してるのかで無限後退に陥るような・・・

編纂された社史の速報版を、他のこびとも一緒に閲覧している状態、
もしくは、編纂室のこびとが速報版を大声で読み上げてるのを他のこびとたちが聞いている、
その状態が意識なのではないかと。


そう考えるほうが整合性があるように思えるのです。
速報版の社史はほとんどがその時点で参照されて捨てられ、一部長く残って後々からでも参照できればエピソード記憶ということだと思うんです。

速報版が読み上げられているのを、編纂室のこびと自身も聞き、それに対する他のこびとの反応をみてまた速報を出す。これで流れて連続している意識という感覚が作られているのだと

ですから社史を編纂し速報を出すまでの処理時間が、意識の時間遅れの主要因ではないでしょうか。

指を動かす決定をしても、それを私が知るのは、編纂室から「動かす決定をしました。」という速報が放送されるのを待たないといけないからでは・・・

No.61 - 2005/01/22(Sat) 02:44

Re: (No Subject) / おずおず 引用

藤田さん始めまして。よろしくお願いします。
実はボクも、意識とは、「小びとたち」そのものじゃないんだろうか?と、何となく感じているのです。つまりボクは実は「ボクたち」なんじゃないんだろうか、と。
美味しそうな赤い木の実を「意識」しているボク、は、実は「赤いよ!」と騒いでる小びと、「木の実だよ!」と騒いでる小びと、「美味しそうだよ!」と騒いでる小びと、...の小びとたちのコーラスなのだ、と。
それをネットワークで結ぶと「赤い木の実があって美味しそうだよ!」という、交響楽のような壮大なハーモニーになる...。
そして、このハーモニーの中で、声の大きかった順番に、小びとの声を記憶しているのが、エピソード記憶。つまり、誰かが「この場合、赤い!と騒いでることは取るに足りないことだから社史には書かないでおこう。」なんて考えてるのではなくて、単に大きい声から順番に、社史の1ページの容量におさまる範囲で書き留めているだけ。
再生の際にはページの最初の方に記述されている、声の大きかった内容がまず思い出されて、意識を記憶に集中していくに従ってその当時の小びとたちのささやき声まで再生されていく...。

実はボク達は全身の肌の感覚(触覚、圧覚、痛覚、度覚)をいつもセンスしているはずです。なぜなら神経繊維はいつも繋がってるんだから。
ただ、それらのセンサーが「通常の状態」であるという信号を送ってきている限り、ボク達はわざわざその状態を意識しません。というか、「無意識」じゃなくて、「無視」している状態なのじゃないか、と思うのです。

腹痛をおこしたり、熱いジャガイモのひとかけらを飲み込んだりしたら、胃の痛みや食道を伝い落ちてゆく熱い固まりの存在を確かに感じます。ボク達は内臓にも皮膚感覚を持っているのです。普段はそれを「無視」してるだけのことです。

そう考えると、意識って、なんなのでしょう?
無視できないこと、何らかの対処を行わなければいけないこと、小びとたちが騒いでいる状態、...なのじゃないのでしょうか?

そう考えると、小びとたちの重み付けがどんな順序で、どんな原理でつけられているのか、が気になります。
んで、その重み付けは、脳の旧皮質や延髄のあたりの、小びとが存在しなかった頃の脳、意識がまだ形作られていなかった頃の、人間の先祖の脳、から、受け継がれてるんじゃないでしょうか?

以上はもちろん、裏付けも何もない、思いつきの仮説ですけど...(^_^;)


それはそうと、P.86の大脳皮質への刺激とそれを認識するまでの0.5秒の遅れのお話しですが、ボクはこれの解釈はもう一つありうると考えています。
大脳皮質への電気刺激は本来の信号の経路とは違います。
いわば高性能な熱センサーを思い切り揺さぶったりカナヅチで叩いたりして出力を得ているようなものです。
だから、雑音除去回路のようなものが外部のかく乱に負けたときはじめて信号を発してしまうのであって、その間隔が0.5秒なのではないでしょうか?

これを確かめるには簡単な実験をすれば良いと思います。
リベットの実験で使った光の点を眺めてもらって、机の下に隠した手のひらにランダムに針を突き立てて、痛いと思った瞬間の光の一を教えてもらうのです。
多分0.5秒も差はないと思うのですけど。
...違うのかなあ?

No.62 - 2005/01/22(Sat) 12:19

Re: 意識は小びとたちか? / maeno 引用

藤田さん,おずおずさんの考え方の方がたぶんこれまでの常識的な考え方に近いのだと思います。しかし,むしろ,そう考えると,「意識という小びとたち」をどうやってまとめるか,という無限縮退に陥ってしまい,バインディング問題を解けないことになってしまいます。
だからこそ,意識は無意識下の複雑な小びとたちの振舞いを「ウソの」直列演算で近似する(脳の計算理論/川人光男)システムだと考えることによって,バインディング問題に陥らないようにしよう,というのが川人先生や私の考えです。有限なコンピュータクオリアは,こまかいことは実は知らないのに,あたかも知っているかのように錯覚している,というのが拙著で言いたかったことなのです。
ラマチャンドランが「脳の中の幽霊」で書いていますように,ヒトは手がないのに手の痛みというクオリアを意識できるわけです。これを拡張すると,意識は錯覚なのに意識全般のクオリアを感じることができる,と考えられます。我思う故に我あり,ではなくて,我思う,しかし我は虚構である,というわけです。

No.63 - 2005/01/26(Wed) 22:29

長文ご容赦 / 藤田英親 [関東] Email 引用

こびとや社史編纂室などのアナロジーだけで話をあまり複雑にしてゆくとだんだん本質からずれてきそうな不安も感じます。
ちょっとまた迂遠な長文になりそうですが、僕の思ってるイメージを何とか説明したいと思います。読んでいただけると幸いです。


>意識は無意識下の複雑な小びとたちの振舞いを「ウソの」直列演算で近似する(脳の計算理論/川人光男)システムだと考えることによって,バインディング問題に陥らないようにしよう,

これには全面的に賛成です。人が実際に行動や判断をくだしている方法と、どうそれを考えてしたつもりになってるかは時に、いやほとんどの場合違っていると思います。

個人的体験を書かせてください。
子供の頃の一時期ゲームウォッチを片時も離さずにやりこんでいました。上達し猛スピードでボタンを操作しながらステージをクリアできるようになった時、
はたと、自分がどういう基準で次に押すボタンを決めているのか、自分自身が知らないしまた考えてもわからないことに気づきました。

これが意識について考えた僕の原体験です。

また大学時代、通学の道をいつもバイクで車の間をすり抜けして走っていましたが、ある日いつもと違うヘルメットをかぶって走ると、なんだかすり抜けがうまく出来ない、よくよく自分を観察してみると、耳が出ているヘルメットをかぶっているときは、自分が横の車の前に出た瞬間を判断するのに車のボディに反射する音の変化を利用していることがわかった。(自分は目だけで判断しているのだと認識(意識)していたのに。)

こんな体験から、自分の行動を実際に決定しているアルゴリズムと、自分が意識している決定までの過程とは、多くの場合異なっているのだと考えるようになりました。

ですから、無意識下のこびとたちが外界を認識し行動を決定し、それをうその「物語」で近似しているのがが意識であるというのが、僕の基本的な立場です。


ですから意識が錯覚でそういうクオリアがありえるというのは、それでいいのですが、
そのクオリアを作り出すメカニズムというか意識というクオリアの持つ構造についてこそ議論しなければならないんじゃないかと。


以前書いた時間遅れの再帰システムのイメージをもう少し説明します。

たとえば・・・
テレビで2時間ドラマのサスペンスをやってます。僕はそれを眺めながら、枝豆を食べながら、「意識とは・・・」と思索しているとします。

ここで妻にドラマのストーリーを聞かれたら、「実は温泉の女将が犯人で・・・」などとそれなりに話すでしょう。
この目や耳から入ってきたテレビの内容を判断し、そのストーリについて話している実体は実は小人の集まり・・・で間違いないですよね。

では、妻に今何を考えていたの?と聞かれたら、「意識について考えてたら枝豆を吸い込みそうになって焦った」とか自分が意識していたと思う内容について話すでしょう。
このストーリーを話している実体も小人の集まり・・・のはずですよね。

つまり言いたいのは、外界からの情報と同じように、近似で作られた意識の内容について、小人たちは知っているということです。(当然といえば当然ですが)

小人たちにうその近似の内容が何らかの形で提示されていなければ、意識の内容について私(=小人の集まり)が話すことはできないでしょう。

では、どういう形でうその近似の内容が小人に提示されているのか・・・
ドラマの内容は視覚と聴覚のモダリティをもって小人たちに知覚される。
それと似たような形式で、
うその近似された内容は、意識のモダリティをもって小人たちに知覚されるのではないかと。


うそでも、近似でも、自分の内部状態についての情報を、外部からの情報と同様に取り扱えることは、単に反射の組み合わせだけでなく
複雑な判断をするためにはどうしても必要な機能であるように思われます。
ただ、内部状態のそのままの情報では情報量が多すぎるので、大部分はしょって圧縮したのが意識の内容であり、
その内容を外部情報と同列に自身に再帰的に入力することで意識が知覚されるのだと。


意識の内容は一部のこびと(社史編纂室)が作った近似だけれども、その内容を意識している主体は、再帰的に提示された内容を知覚しているこびとの群れ全体なのだ、
として捉えれば、無限後退もバインディング問題も大丈夫なように思うのですが・・・・

また、
意識するという行為は、記憶を想起する行為と見かけ以上に密接な関係というか、同じ事なんじゃないですかねー
今おきてることの近似をすぐ(0.5秒遅れで)再提示して知覚するのが意識で
ずっと後になって再提示して知覚するのがエピソード記憶なのではないでしょうか。

No.64 - 2005/01/27(Thu) 04:46

Re: よほどボクは... / おずおず 引用

ものわかりの悪い人なのかなあ...?

デジタル式のストップウォッチでボタンを押して、100分の1秒単位で、自分の思ってる数字で止める遊びを昔、楽しんでました。

例えば3.00秒で止めるのです。次は13.00秒で、と...。

この場合ボクは「意識して」、数字を止めます。
従って、ボクが3.00秒だと認識したときは、本当は3.5秒のはずですよね。
つまり、ボクの意識が現実から0.5秒遅れているのだから、ボクの意識が3.0秒だと認識しているときはストップウォッチは実は3.5秒を指しているはず。

でもボクはいつも、0.05秒程度の遅れしか出さなかった...??

No.65 - 2005/01/27(Thu) 17:34

Re: 無限縮退...? / おずおず 引用

自分を意識している自分、それを意識してる自分、....。

ボク達の意識は鏡じゃないと思うのです。だから無限縮退なんてそもそも生じ得ない。

強い人間原理の主張のように、もし宇宙が、自らを意識するもの、意識することによって宇宙の存在を保証するもの、を必要として人間を作ったのなら、とても宇宙なんて存在できない。

広大無辺の宇宙を想像してみてください。そしてそれを注意深く眺めてください。

実際の大きさの地球を想像できていますか?
太陽系全体をリアルに想像できますか?

しょせん、模型でしかないんじゃないですか?
ボクの場合、太陽はリンゴ玉程度で、冥王星さえもリンゴ玉を中心にして半径1m程度で周回している。

自分の意識を意識してみてください。

多分、ここを読むまで、
自分を意識している自分を意識している自分(たった3ステップ)、は、意識できていないはずです。

それだけ考えても、自分の意識している自分は、本当の自分じゃないことがわかります。本当の自分の意識の100分の1ほどの情報量さえ持っていない、模型の自分なのです。縮退を起こすほど磨かれた鏡じゃない。というか、自分自身を見ていないのだから、縮退を起こせるわけがない。


違うのかなあ...?

No.66 - 2005/01/27(Thu) 18:05

Re: もう少し自分の論点を分かりやすく / おずおず 引用

P.86の最初の行に、「刺激が0.5秒以上持続しないとき」には、刺激を感じない、とあります。
ところが本来の皮膚への刺激では0.1秒の刺激でも十分感じます。
このことは、皮質への刺激と実際の感覚情報伝達とは「違う」ということを意味してるのじゃないのでしょうか?

同ページ3行目、「その瞬間に「痛い」と感じる」のは、「意識される時点」のことを指してると思うのですが、その意識は刺激の瞬間に発生しており、0.5秒も遅れてはいない。

「大脳皮質経由の触覚と本来の経路経由の触覚との間に0.5秒の差がある」のであって、
「刺激と意識との間に0.5秒の差がある」という意味では無いのじゃないか、と、この実験を読んでボクは思うのです。

次に、「無限縮退」の問題。
P.41では、議論がどうどう巡りに陥っているように思うのです。
「意識」は観測者です。この観測者を観測するものがいなければ観測が出来ないはずだ、というのは、一見論理的だけれど、実は無意味だとボクは思うのです。
鏡がものを映すためには鏡がものを映しているということを映している鏡が必要だ、と言ってるようなものじゃないか?
小びとのネットワークそのものが意識だ、と、単純に考えることを妨げるものが、ボクには見えないのです。
んで、もしそんなものがあり得るとすれば、それは我々が「意識」を「意識」している(と思いこんでる)こと、くらいかなあ?と思ったのです。でも我々は意識を意識なんかしていない。

No.67 - 2005/01/29(Sat) 11:29
情報と<私> / 潤平 引用

以前「<私>は情報なので,空間的次元は持たないのだと思います。」と回答いただきましたが、それについてノーレットランダーシュやチャーマーズの著書なども参考に、自分なりに考えて見ました。

<私>が、物理的な存在ではないということには、全面的に賛成ですが、ご意見を伺ってみたい部分が出てきました。

ここでの「情報」とは、

@或る可能な状態の中で、その中の1つであるという意味での情報。
A脳の中の物理的プロセスによりインプリメントされている、アルゴリズミックな一連のパターン発展、という意味での情報。

のいずれに相当するのでしょうか?若しくは、また別の定義がふさわしいのでしょうか?
僕自身では、或る<私>と別の<私>の差異は@で説明できそうな気がしますし、<私>自体に関する記述としてはA
でいけそうかな?と勝手に推測しています。

No.49 - 2004/12/29(Wed) 19:35

Re: 情報と<私> / maeno 引用

難しいですね。私は,拙著で述べたように,<私>とは単なる無個性な自己意識のクオリアの定義が何らかの情報として表現されたもの,と考えています。正直言って,その情報の構造はまだ具体的にはわかりません。
<私>や「私」のクオリアが具体的にどのように情報表現されるのか,というのが残された唯一の不明な箇所なので,考えていきたいと思っています(と,みんな思っているわけです)。

No.50 - 2004/12/29(Wed) 22:53

Re: 情報と<私> / 潤平 引用

ご返事ありがとうございました。
新年明けましておめでとうございます。

ご多忙かと存じますが、<私>と「情報」に関しての考察進みましたら、是非次回の著作を執筆してください。
非常に楽しみにしております。

蛇足かも知れませんが、
Chalmersのホームページを見ていたら、比較的まとまった論文のArchiveを見つけました。各分野の著名な研究者のものは、網羅されていると思いますが、ご参考まで。

http://jamaica.u.arizona.edu/~chalmers/online.html

No.53 - 2005/01/01(Sat) 17:03
意図と意識 / シナモン [関東] 引用

はじめまして。

リベット博士の「指を動かす実験」の話です。
指を動かす準備ができた時刻よりも、指を動かそうという意図を意識した時刻の方が後だということですよね:
 指を動かす準備 < 意図を意識
意図と意識とを区別して書かれているので気になったのですが、これって、意図した時刻については何も言っていないのですよね?
 意図 < 指を動かす準備 < 意図を意識
かもしれないし、
 指を動かす準備 < 意図 < 意図を意識
かもしれないし、
 指を動かす準備 < 意図を意識 < 意図
かもしれないけど。

No.46 - 2004/12/28(Tue) 19:04

Re: 意図と意識 / maeno Home Email 引用

私は,意識と意図は別物だと考えて区別していますが,両者のタイミングは一致しているという仮定の下で述べています。
おっしゃるとおり,「意図」と「意図の意識」のタイミングが異なる可能性もあるかも知れません。しかし,その場合の「意図の意識」に先立つ「意図」は,まだ意識されていないわけですから,無意識下で行っていることになるため,それはまさに運動準備電位などと同様な無意識下の小びとたちの処理,ということになるのだと思います。

No.47 - 2004/12/28(Tue) 22:50

Re: 意図と意識 / シナモン [関東] 引用

返事ありがとうございました。
前野さんには、この本のような平易なスタンスも維持していって欲しいなと期待してます。

仕事が手に付かないときなどに、指ならぬ手をニギニギしてみます。
そのとき、自分は何か大きな勘違いをしているのではないか?と感じたものです。
その勘違いが0.5秒の遅れのことだったのかは分かりませんが、
「脳はなぜ…」を立ち読みしながら、そのことを思い出しました。
…あ、もちろん買いましたよ。

No.52 - 2004/12/30(Thu) 13:51
時間の錯覚を確かめたい / シナモン [関東] 引用

意識の時間のずれを、もっと簡単に確かめられませんかね?電極なんか使わずに。
目の錯覚は、例えば定木を当てれば錯覚だとわかるじゃないですか、こどもでも。今や一般人の常識で、クイズ番組の問題にすらならないですよね。

No.51 - 2004/12/30(Thu) 13:08
バインディング問題について / おずおず [近畿] 引用

お邪魔します。よろしくお願いします。

バインディング問題はもともと存在しないんだ、(P.107 9行目)とのことですが、
http://brain.nips.ac.jp/event/group121218.html#NO20
の、
20. 多賀厳太郎 発達過程における視覚系のバインディング問題と脳のダイナミクス

によれば、脳の発達過程においてバインディングへの対処の仕方が変わる、と言うようなことが印されています。

存在しない問題が、年齢によって変わるようなことはあるのでしょうか?

No.33 - 2004/12/23(Thu) 16:32

Re: バインディング問題について / maeno 引用

説明(言い訳?)させていただきます。
実は私は,本では「バインディング問題は存在しない」,HPでは「バインディング問題は川人先生が解き方を示している」と述べていて矛盾した印象を与えていると思います。
「バインディング問題は存在しない」というのは,正確に言うと「哲学者が解けない問題であると考えているような意味でのバインディング問題は存在しない」(=いわゆるバインディング問題(例えば「赤いリンゴ」というものを認識する問題=多賀先生が言われている視覚のバインディング問題)は小人の自立分散的処理により解決できる)という意味です。

No.37 - 2004/12/24(Fri) 00:19

Re: バインディング問題について / おずおず 引用

お返事ありがとうございます。

取り急ぎお礼を言いたくて...。

No.40 - 2004/12/24(Fri) 21:14

Re: バインディング問題について / おずおず 引用

> 小人の自立「分散」的処理により解決できる

という表現は、バインディング「前」の状況の記述であって、それをどうバインドするか、という、肝心の所についての記述がないように思えるのです。
P.108 5行目で、「結びつけていると錯覚している(つまり実際には結びつけていない)」と書かれていますが、もしそうなら、
「あの木の実は赤くない(形と色)から、まだ食べ頃ではない(味)。」という判断は、どのようなシステムでなされているのでしょうか?
赤い葉っぱや青い実をを食べずに済む方法は、「分散処理」だけでは解決できないと思うのですが。

http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/Toshiba_Brain3.htm
の、下の方に、
生理学者のこれまでの多大な努力によって、線分の方向とか、手とか顔とかに敏感に反応する細胞が発見されてきています。ところがそういう発見のされ方故に、今度は逆にバインドが難しくなる。しかしここで、これらは元々1つのダイナミクスの総体として応答しているものと仮定すると、実はバインディング問題自体が存在していないんです。

という記述があり、この意味は、「こびとは実は独立しているのではなく、小びとのネットワークという高次構造をつくっていて、この構造そのものがバインディングという作用なのだ」ということだと(私の乏しい読解力では)思えるのですが、先生のおっしゃりたいことはまさにそういう意味なのでしょうか?
物わかりが悪くてすみません...。

No.41 - 2004/12/25(Sat) 10:41

Re: バインディング問題について / maeno 引用

「あの木の実は赤くない(形と色)から、まだ食べ頃ではない(味)。」というのは,64ページに書いたような小びとの連想ゲームによって,
木の実→食べ物
赤い+食べ物→食べごろ
赤くない+食べ物→食べごろではない
のように,様々な知識・記憶を使った連想ゲームの結果としてボトムアップ的に導き出されると考えています。
酒井先生と私の考えは違うようですが,
「小びとのネットワークという高次構造そのものがバインディングという作用なのだ」
という表現自体には違和感はないです。

No.44 - 2004/12/28(Tue) 14:09

Re: バインディング問題について / おずおず 引用

わかりました。お教え頂き有難うございました。

No.45 - 2004/12/28(Tue) 17:10
ホムンクルスの居場所 / 藤田英親 [関東] Email 引用

お邪魔します。

先生のご本読ませていただきました。

受動的な意識、川の下流、意識とエピソード記憶の関係、
自分が漠然と考えていたことを、きちんと論理だてて言葉にしていただいているように感じて
読みながらとても興奮し感動しております。

行動や認知が、自身の意識の中で解釈されているのとは、実際は違う方法(小人たちの心の社会)で決定されていて、
意識しているのは錯覚の物語であることは、全面的に正しいと私も思います。

ただし、途中から論旨の展開の中で「私」<私>の実際の構造がどうなっているの疑問からはなれ、問題を矮小化する事で回避しているように感じられて残念です。

オーギュメンティッドリアリティのように意味づけされた感覚、小人たちによって作り出された錯覚を「受動的にみている」というだけではホムンクルスがまだ居ると批判されてしまうのではないかと危惧します。
「ハードプロブレムは存在しない、と主張する理科系人間」に単純にカテゴライズされてしまいそうな・・・

ホムンクルス内のホムンクルスの無限後退の矛盾を、うまく(哲学者が納得するように)説明できてこそ受動的な意識の理論が説得力を持つように思います。

ここからは、私自身の考えてたことなのですが、
デカルトの劇場を見ているのは、能動的にしろ受動的にしろある程度認知能力を持った主体であると考えるのが自然ではないでしょうか
脳の中でそれを担えるのはどこかを考えれば、当然脳のどこか一部分もしくは一機能には荷が重く、脳全体なら可能でしょう。
無限後退に陥らずそれを実現する為には、脳全体で作り出した、「自分が主体的にこう感じ、こう考え、こう行動したという物語」を、
ある時間遅れの脳全体で認識すればいいのではないでしょうか。

つまり、ホムンクルスの無限後退は、どこかに小さく縮退してゆくのでなくて、時系列的に続いているだけであるということです。
川の下流には「私」が居るのではなくて、流れてきた水を上流の水源にくみ上げるポンプが設置されているだけではないでしょうか。

コンピュータに実装するなら、行われている情報処理を簡潔に要約した内容を「私」ファイルに書き込んでゆくという感じでしょうか、
そのファイルをシステム全体が参照可能でかつ実際にその後の処理に活用してゆくのであれば、そのコンピュータはある意味、意識を持ったのだと思うのですが。いかがでしょうか?

ゾンビのたとえで言えば、ゾンビに日記を書かせて、少し書いては前の記載を読む事を繰り返せば、ゾンビが意識体験を持たなくても
ゾンビ+日記 のシステムは意識をもてるだろうと。


自分の文章力のなさにいらだちますが、
時間遅れの再帰的システムを仮定すれば、「私」や<私>の構造や場所を心配しなくていいように思えるのです。

不躾な書き込みで申し訳ありません、ご意見をいただければ幸いです。

No.42 - 2004/12/26(Sun) 00:14

Re: ホムンクルスの居場所 / maeno 引用

拙著をお読みいただきありがとうございます。
いろいろなご指摘もありがとうございます。
藤田さんの心のモデルは,私のものと違って,時間遅れと再帰システムによって意識を表現できる,というものなのですね。面白そうだとは思いますが,まだちょっと理解しきれていません。少し考えさせてください。これからも交流させていただければと思います。よろしくお願いいたします。

No.43 - 2004/12/28(Tue) 00:52
もう一つだけ / おずおず 引用

意識を持ったロボットは必然的に脅威になる、とは私は思いません。

ただ、「つくる人達が悪意の固まりである」なら、当然、脅威になるだろうという恐れは持っています。

例えばペンタゴンとか...。

No.35 - 2004/12/23(Thu) 17:04

Re: もう一つだけ / maeno 引用

核兵器と同様ですよね。

(ペンタゴンが悪意の固まりだとは思いませんが。)

No.39 - 2004/12/24(Fri) 00:27
意識とエピソード記憶について / おずおず [近畿] 引用

もうひとつ理解しかねているところがあります。

P.114 7行目、「エピソード記憶は、自分が行ったこと、注意を向けたことの記録だ。たくさんの小びとたちではなく、「私」一人の体験でなければならない。」
という文の意味です。

「たくさんの小びと」のバラバラな活動を一つにまとめる、と言う作業を行っている「場」が、意識である、ということなのでしょうか?

もしそうであるならば、「意識」は、「バインディング問題を処理する場」と考えられはしないのでしょうか?

また、小びとのバラバラの活動を統合して得たものが「エピソード記憶」であるのならば、その記憶を活用するときには(この前木の実を食べきった樹にはもう実はないから行っても無駄だ、とか。)その記憶を作った「場」(意識)に再度展開しなければいけないのじゃないのでしょうか?

エピソード記憶が小びとたちの活動をまとめたものであるならば、エピソード記憶を活用するときに、何らかの意味で各小びと達の受け持ち分野に分解してやる必要があると思うのですけど、そのような作業を行う場があるとすれば、「意識」がその場であると考えるのが最も合理的だと思うのですけれど...。

或いは、そのような過程は必要ないのでしょうか?

No.34 - 2004/12/23(Thu) 16:55

Re: 意識とエピソード記憶について / maeno 引用

「たくさんの小びと」のバラバラな活動が一つにまとまった結果を観測するという作業を行っている「場」が、意識である、ということです。
「エピソード記憶」を活用するときには、それが無意識に展開され、無意識の自律分散演算として分解や統合が行われると考えます。

No.38 - 2004/12/24(Fri) 00:24
心理療法、精神修養 / 橋本 敦生 [関東] Home Email 引用

「脳はなぜ『心』をつくったのか」を拝読。とても明快で納得しました。心療内科医として毎日意識や無意識を扱っていますのでこのような仮説は大変役にたちます。また性格という現象に興味をもっています。一人一人のDNAがもたらした「小人たち」の偏りをどう応用するか?多分「小人たち」は調和して働いたり、喧嘩して働いたりするのを「私」はどう選択することができるのか?NLPとテンゲングラムについて興味がお有りでしたら本を送らせて頂きたいのですがよろしいでしょうか?

No.36 - 2004/12/23(Thu) 18:58
睡眠について / 阿部 Email 引用

阿部と申します。よろしくお願いします。

以前から認知心理学に興味があり、リベットの実験結果を知って、「意識とは命令権を持たない参謀のようなものでは?」と思いつき、その方向でいろいろ調べていました。偶然新聞の広告欄で「脳はなぜ「心」を作ったのか」を知り、即座に購入して読ませていただきました。

「もうすでに考えていた人がいたんだ」と驚くやら嬉しいやらで。

拝読したところ、「参謀」というより「記録係」といった感じなのですね。

今日お伺いしたいのは「睡眠」についてです。

睡眠は身体の休養ではなく、脳もしくは精神に必要であることは間違いないと思いますが、受動意識仮説によると「意識」の作動にはあまり負担がかからないように感じられるので、睡眠中に意識が途切れる(場合がある)のはどんな理由によるものなのでしょうか?

OSの動作中カーネルのバックアップができないのと同じことなのかもしれませんが、エピソード記憶の編集過程を「意識」が黙って傍観している、ということがあってもよさそうに思うのです。

No.31 - 2004/12/13(Mon) 20:54

Re: 睡眠について / 前野隆司 [関東] 引用

必要ないからじゃないですかね。
もしも睡眠中に意識があったら,その意識もエピソード記憶されなければならないので,脳が混乱しそうですよね。というか,現実と夢の区別が付けにくくなって,現実世界で生きにくそうです。

睡眠って,面白いですよね。意識が無いという意味では死とかわらないのに,また起きると思うからか,皆,怖くないですよね。

No.32 - 2004/12/14(Tue) 20:42
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