ROE経営の
落とし穴
公益資本主義に基づく考察
― ROEを超える経営指標に求められる要件 ―
ROEは企業の「稼ぐ力」を本当に測れているのか。日本でROE 8%が政策目標として広がった経緯と副作用を検証し、会社を支える「社中」全体への貢献を測るROC(Return on Company)の基本要件を提示します。
一つの数値から、企業の全体像へ。
本稿はROEそのものを否定するのではなく、ROEを最上位の経営目標として扱うことの限界を問い、持続可能な企業経営を評価する新たな指標設計へ議論を進めます。
政策で示されたROEの目安
「最低限8%」という水準が、日本企業の具体的な目標値として広がった経緯を検討します。
ROEを主要指標に据える限界
操作可能性、比較可能性、変動性、利益代表性、外部要因、会計基準差の六つに整理します。
ROCに求める基本要件
事業の継続性、分配の公平性、事業の改良・改善性を中長期的な評価軸として提示します。
論文が投げかける二つの問い。
「会社は誰のために存在するのか」という企業観と、「企業の稼ぐ力を何で測るのか」という指標設計を接続し、政策・企業行動・社会的成果を一つの流れとして捉えます。
ROEを「経営目標」に置くと、何が起きるのか。
ROEは借入比率、配当政策、自社株買いなどの意思決定で改善できます。数値目標が先行すると、研究開発、人材、賃金、取引先、内部留保などへの配分が後景に退き、企業の持続性を損なうおそれがあります。
企業が生み出す価値を、誰にどう分配するのか。
会社を支えるのは株主だけではありません。従業員、顧客、取引先、地域社会、環境、会社自身を含む「社中」全体へのリターンを可視化し、企業の公器性を経営評価へ組み込む必要があります。
ROE重視は、どのように制度化されたのか。
本稿は、日本再興戦略、スチュワードシップ・コード、伊藤レポート、コーポレートガバナンス・コード、議決権行使基準、PBR対応要請までをたどり、資本市場起点の改革が企業行動に及ぼした影響を整理します。
日本再興戦略
企業の「稼ぐ力」とコーポレートガバナンス強化が成長戦略の主要課題となる。
スチュワードシップ・コード/伊藤レポート
機関投資家との対話を促進し、ROE 8%が日本企業の目安として広く認識される。
コーポレートガバナンス・コード
上場会社に資本効率と投資家対話を意識した説明が求められ、ROE基準も議決権行使へ浸透する。
株主総利回り(TSR)の開示
有価証券報告書で株主への総合的リターンを示す開示が定着する。
資本コスト・株価を意識した経営
東証がPBR 1倍未満企業を含む上場会社へ対応を要請し、資本効率改善が一層重視される。
ROEを主要経営指標に据える、六つの構造的限界。
ROEは計算しやすく、投資効率を伝える点では有用です。しかし、経営者の達成目標として単独で用いると、企業の本質的な価値創造や社会的責任を十分に捉えられません。
経営判断で数値を動かせる
借入比率、配当、自己株式取得によって分子・分母を変えられるため、実体的な収益力の改善なしにROEを高める余地があります。
国際比較の前提が異なる
地価、資産回転率、債権債務の決済慣行、販売管理費、物価水準など、経済・ビジネス環境の差を無視できません。
短期の変動が大きい
固定資産売却、災害損失、評価・換算差額など事業活動以外の要因を受け、年度間のボラティリティが高くなります。
主に株主の利益を代表する
従業員、債権者、取引先、顧客、地域社会など、企業活動を支える他の参加者へのリターンを直接には表しません。
為替など外部要因を受ける
円高・円安をはじめとする経済環境の変化が数値へ反映され、企業経営そのものの成果と切り分けにくい面があります。
会計基準によって変わる
日本基準、US GAAP、IFRSでは、のれんや有価証券の処理が異なり、当期純利益と自己資本の双方に差が生じます。
「株主へのリターン」から、「社中へのリターン」へ。
ROC(Return on Company)は、企業が生み出した価値を、会社を支える社中全体へどのように還元しているかを評価する構想です。従業員、株主、顧客、仕入先、地域社会、地球環境、そして会社自身への内部留保までを、持続的な価値創造の構成要素として捉えます。
事業の継続性
金融収縮、災害、危機に耐え、事業を復旧し、従業員の生活を守れる体力を持つこと。内部留保を単なる余剰資金ではなく、持続性の基盤として評価します。
分配の公平性
株主だけでなく、従業員、顧客、取引先、社会、環境へ、企業が生み出した総付加価値を公正に分配しているかを捉えます。
事業の改良・改善性
研究開発、人材育成、製造技術、顧客価値の向上など、将来の事業をより良くする投資を継続しているかを評価します。
利益は、会社を支える多様な主体へ還元される。
公益資本主義における「利益」は、配当だけを意味しません。給与・教育・福祉、安全性・品質、適正な購買、地域貢献、環境保護、将来に備える内部留保も、企業が創り出すリターンです。
本稿では、フローの価値基準として「分配公平性スコア」、ストックの価値基準として「持続性スコア」を示し、指標の具体化へ道筋を付けています。
論文は、問題提起から指標構想へ段階的に進みます。
企業観、政策史、指標の技術的限界、代替指標、社会的業績評価という五つの層を積み重ね、ROE批判を新しい経営指標の開発課題へ接続します。
問題の所在
会社は誰のためにあるのか。株主主権論を問い直し、企業の公器性と「社中」の概念を示します。
ROE重視の政策経緯
日本再興戦略、二つのコード、伊藤レポート、8%目標の根拠と企業行動への影響を検討します。
なぜROEなのか
投資家、JPX、日銀、GPIF、議決権行使助言会社を通じた普及と、指標の六つの問題を整理します。
ROCの構想
社中全体への貢献を測る指標としてROCを提案し、継続性・公平性・改良改善性を示します。
社会的業績指標の在り方
ROE偏重の弊害を総括し、実体経済、人材、研究開発、地域社会を含む経営評価へ展開します。
研究成果を、制度・経営・対話・指標へ。
本論文の射程は、学術的な指標批判にとどまりません。KGRI-PICセンターが進める政策研究、企業ガバナンス改革、ワークショップ、社会実装の共通基盤となります。
政策・制度設計
資本市場の数値目標が企業行動に与える誘因を検証し、ハードロー・ソフトローの改正議論へつなげます。
企業経営
ROE改善を目的化せず、事業継続、人材、技術、取引関係、地域社会を含む経営課題として再設計します。
投資家との対話
短期リターンと中長期価値の違いを明確にし、企業の持続性と社中分配を説明する対話枠組みを整えます。
新指標の開発
分配公平性スコアと持続性スコアを、企業データ、実証研究、ワークショップを通じて測定可能な指標へ発展させます。
論文情報・著者
全文は慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)で公開されています。引用・転載にあたっては、リポジトリに記載された著作権上の条件をご確認ください。
原丈人・猪熊浩子(2025)「ROE経営の落とし穴:公益資本主義に基づく考察―ROEを超える経営指標に求められる要件―」『慶應義塾大学日吉紀要 社会科学』第35号,61–90頁。
公益資本主義を、研究から実装へ。
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