はじめに WCA (Wants Chain Analysis、欲求連鎖分析)とは、人々の欲求の連鎖を可視化することによって、社会の仕組みの分析やデザインを行う手法です。WCAは、以下のような場で利用できます。 ・企業・社会企業・NPO・NGOなどの組織におけるビジネスモデル・社会システム(しくみ)の分析とデザインのためのツールとして ・心理学、社会心理学、社会学における、人間の欲求と行動の分析ツールとして ・人々が重視する価値体系を分析する倫理学的研究のツールとして ・コーチングや研修、教育など、ヒューマンデベロップメントのためのツールとして システムデザイン・マネジメント研究科の必修グループプロジェクト科目「デザインプロジェクトALPS (Active Learning Project
Sequence)」ではWCAを用いた教育を行っています。 WCA (欲求連鎖分析)とは? マズローは欲求を5つの基本的欲求(生理的欲求,安全欲求,所属と愛の欲求,承認・自尊欲求,自己実現欲求(表1参照))にまとめ直すとともに,欲求間の関連を考察し,欲求の階層説を発表しました.欲求の階層説によると,人間は,低次の欲求がほぼ満たされると高次の欲求を満たそうと行動する傾向があります.なお,生理的欲求から承認・自尊欲求までの4つは何らかの欠落を補いたいという欲求なので欠乏欲求とも呼ばれ,自己実現欲求は欠落の充足ではなく自己の成長を目指す欲求なので成長欲求とも呼ばれます.なお,マズローは,階層とは異なる基本的欲求として,審美的欲求と認知・理解の欲求をあげています.(図1、表1参照) 図1 マズローの欲求の階層と認知的欲求(「人間性の心理学」A. H. マズロー) 表1 マズローの分類に基づく人の欲求の分類(「人間性の心理学」A. H. マズロー)
本研究では,欲求の分類を試みた結果,2つの要素(①動作主,②対象)と,マズローの7つの基本的欲求を用いて,欲求を分類できることを明らかにしました.分類結果を図2に示します.図2の2×2マトリクスの上下は①動作主(subject)(自力/他力)を,左右は②対象(object)(利己的欲求/利他的欲求)を表します. 要するに,従来の欲求研究では,主に図2に示す左側(利己)の枠のみが着目されてきたといえます.これに対し,図2に示す分類方法を用いると,例えば“食欲”が,以下の4つの側面から表現できます(図2参照). (1) 私は,何かを食べたい(図1左上). (2) 私は,誰かに何かを食べさせてほしい(左下). (3) 私は,誰かに何かを食べさせてあげたい(右上). (4) 私は,誰かが他の誰かに何かを食べさせてほしい(右下). 図2に示した,利己/利他・自力/他力から成る欲求の分類方法を社会システムの分析に用いれば,人や組織の欲求の対象が“自己”である利己的欲求と,“他者”である利他的な欲求を区別することができます.また,社会における人と人との関わり合いが,どのような欲求に基づくかを明確に可視化できます. マズローの欲求の7分類をハートマークの中に書くとともに,利己的欲求を赤色,利他的欲求を緑色,動作主が自己の欲求を塗りつぶし,他者の欲求を白抜きで表記しています.利己的欲求を赤色,利他的欲求を緑色にした理由は,情熱の血の色は自分のため,植物の緑色は自然環境や社会環境のため,というイメージにつながりやすいと考えたからです. 図2 利己・利他-自力・他力から成る2×2欲求マトリクス WCAの図を描く手順は以下のとおりです.なお,WCAはCVCAを発展させた手法なので,下記に示す分析手順の1と2はCVCAの分析手順と同じです. 1.製品やサービスに関連するステークホルダを洗い出す(企業,NPO/NGO,政府,学校,消費者など) 2.ステークホルダ間での,金銭,商品,サービス,情報のやりとりの内容を,矢印とともに記入する 3.それぞれのステークホルダがその行為に至った欲求が図1のどの欲求に基づくかを推定し,矢印の始点に図1のマークを記入する.欲求を記入する際に,下記の2点も同時に行う (1) 欲求の補足説明を,欲求のマークの近くに記述する (2) カラー表示の場合は,矢印の色を,欲求の色(利己=赤,利他=緑)に変更する なお,人の行動は,複数の欲求に基づく場合が多々あります.その場合は,一つの行動に対し,複数の欲求を記入します.また,他人の考えの詳細は推測できないため,欲求を書き出すことが困難な場合も多々あります.この場合,CVCA同様,欲求の抽出は人為的作業により行われるため,作業者の能力や資質によっては必要な欲求が十分に抽出されない場合が生じえます.ただし,欲求の抽出の際には,表1および図1の欲求の分類が手助けとなります.様々な欲求のリストをあてはめながらステークホルダの考えを推定することによって,なるべく漏れなく欲求を抽出することができます. 4.下記の三つの欲求連鎖ルールを基に,全てのステークホルダについて3で推定された欲求の充足状況を確認する ① 利己的欲求(図2左側,モノクロではハートマーク,カラーでは赤):あるステークホルダの欲求の対象が自己の場合は,その者に向かう矢印により欲求が充足すること(ただし,自己実現欲求の場合は当人に向かう矢印は不要) ② 利他的欲求(図2右側,モノクロではリーフマーク,カラーでは緑):あるステークホルダの欲求の対象が他人の場合は,そのステークホルダから出る矢印と,対象に向かう矢印があること ③ 他力の欲求(図2下側,白抜き):あるステークホルダの欲求の動作主が他人である場合,ステークホルダから出た矢印が動作主を介して対象に向かう連鎖を描くこと 以上の三つのルールを図1の四つの領域ごとのルールに書き直すと以下のようになります. ④ 自力・利己(左上):あるステークホルダの欲求の動作主が自己,対象が自己(図2左上)の場合は,そのステークホルダに向かう矢印によって,その欲求が充足すること(ただし,自己実現欲求の場合は当人に向かう矢印は不要). ⑤ 他力・利己(左下):動作主が他者,対象が自分の場合は,自分から出た矢印が,動作主(や,その他のステークホルダ)を介して,最終的に自分に戻る帰還ループを描くこと ⑥ 自力・利他(右上):動作主が自己,対象が他者(図2右上)の場合は,そのステークホルダから対象に向かう矢印が存在すること ⑦ 他力・利他(右下):動作主が他者,対象が他者(図2右下)の場合は,そのステークホルダから出た矢印の連鎖が,欲求の動作主を介して対象まで到達すること つまり,ルール①から③とルール④から⑦は等価です.ルール①から③は論理的に原理を表しているのに対し,ルール④から⑦は利用者が使用しやすい形になっているため,利用者は用途に応じて使い分けることができます.これらのルールが満たせていない場合は,ステークホルダの欲求が充足できていないため,ビジネスモデルとしては不十分であると考えられます. 以上,WCAの四つの手順を示しました.手順より明らかなように,WCAは,CVCAとは異なり,抽出したステークホルダ間のそれぞれの欲求の意味をマークや色で明確化・可視化できるのみならず,矢印の必要十分性に関する判断を行えることが特徴です. WCAの使用例 図3に事例を示します. (a) 一般的なビジネスモデルの基本形 (b) VOLVICの1L for 10L (Drink One, Gove Ten Campaign)のビジネスモデル 図3 WCA(欲求連鎖分析)の例 (図3‘ モノクロバージョン) 図3は,WCAによる「1ℓ for 10ℓ」プログラムの分析結果です.「1ℓ for 10ℓ」プログラムは,夏期の一定期間のみ,飲料水の値段を変化させずに,収益の一部を日本ユニセフ協会に寄付し,その寄付金を基に日本ユニセフ協会がアフリカに井戸を提供する仕組みです.消費者が1ℓの水を飲む際にアフリカの10ℓの水に貢献するという意味で名づけられました(英語名はDrink
1, give 10 campaign). 図3の例では,それぞれの矢印の始点にハートマークまたはリーフマークが描かれており,その中に欲求の分類が書かれています.たとえば,顧客がVolvicに支払う金銭は,水が欲しい(利己・自力)という生理的欲求と,アフリカの人々に水を飲ませてあげてほしい(利他・他力)という生理的欲求に基づいて支払われることがわかります.また,Volvicは,自分が収入を得たい(利己・自力)という安全欲求を満たすために顧客に水を売り,支援事業を社会に知らしめたい(利己・他力)という承認・自尊欲求により広告代理店に広告代金を支払い,UNICEFを介して井戸をアフリカに提供したい(利他・他力)という生理的欲求を満たすためにUNICEFに寄付をしたと推定されます.ここで,欲求の推定には多様な可能性があります.まず,金銭を得ることの目的が自社の存続であれば安全欲求と見なせますが,社会貢献であれば他の欲求とみなせます.寄付をする目的が純粋に「水を飲ませてあげたい」であれば利他的な生理的欲求ですが,「何かいいことをしたい」であれば利己的な自己実現欲求,自分や自社が「社会から高評価を得たい」であれば利己的な承認・自尊欲求と考えられます.さらには,Volvicの利他的行為は広告代理店からの提案に基づいているに過ぎないかもしれません.その場合にも,広告代理店は,世界の飢餓を救うという高尚な目的に突き動かされているのかも知れませんし,世界の飢餓を救うというイメージを作れば儲かると考えているのかもしれません.つまり,他人の心の中を明確に推定することはできないため,各人の欲求の完全な定量化は不可能です.しかし,ここで重要なことは,解析者が抽出した欲求の範囲では,各ステークホルダの立場に立って,それぞれが,なぜ何のために,どのようなインセンティブに基づいてその行為を行ったかを明確にする作業を行うことによって,実現可能なビジネスモデルのそれぞれのやりとりの意味を明らかにできるという点です. また,WCA(図3)は,使用者が抽出したステークホルダと欲求の種類の範囲内におけるそれぞれのやりとりの必要十分性を,前述の欲求連鎖ルールによって確認できるという特徴を有します.たとえば,利己的欲求(ルール①,モノクロの場合はハートマーク,カラーでは赤)は一般に,その者に向かう矢印により満たされていることから,使用者が抽出した欲求に対して必要十分な数の矢印が描かれていることを確認できます.唯一の例外は,市民が広告を見て思った「Volvicの水が欲しい」という欲求が満たされていないという点ですが,これは,破線で示したように,その市民が顧客となることによって満たされます.この例のように(本来の手順にはなかった説明を行うこと(ここでは,破線を描くこと)によって)解決できる場合もあります.次に,ルール②を確認します.図3より,すべての利他的欲求(モノクロではリーフマーク,カラーでは緑)の場合は,そのステークホルダから出る矢印と,対象に向かう矢印があることがわかります.これより,この図に示したすべての利他的欲求は満たされていることがわかります.また,③他力の欲求(白抜き)のケースでは,欲求の連鎖のルールが満たされていることが見て取れます.まず,Volvicの「他人に自分を宣伝してほしい」という欲求は,広告代理店の「自分が他人を宣伝することで金銭を得たい」という欲求による矢印が自分に戻ってくることにより満たされています.つまり,二つの欲求がループを描き閉じることでビジネスが成立しています.また,顧客の「Volvicがアフリカに援助をしてほしい」という欲求は,Volvicの「UNICEFがアフリカに井戸を掘ってほしい」という欲求,UNICEFの「自分がアフリカに井戸を掘りたい」という欲求を介して,水が欲しいというアフリカの人々の欲求に到達しています.このように,利己・他力の欲求は自己に戻るループを,利他・他力の欲求は対象者に至るチェーンを描きます.このような欲求の連鎖を明確に図示できることから,本手法を欲求連鎖分析と呼ぶのです.いいかえれば,WCAは,CVCAと異なり,物質的な対価を求めない募金や救済活動のような“精神的な満足”を可視化できるといえます.WCAは,抽出した全てのステークホルダの欲求が充足できているか否かの判断が可能なので,募金や救済活動のように物質的な対価が得られない行為が成立する理由を推定できるという特徴があります. まとめと今後の展開 功利主義的に自身の幸福を目指す個人の集合体としての社会システムの限界が認識され,人々の公共性・利他性を生かした新たな社会システム構築が模索されている現代社会においては,人々の欲求を我欲として切り捨てるのではなく,欲求のネットワークがいかに新しいつながりを形成しうるかを明らかにする必要があります.本研究では,このような社会ニーズに鑑み,人々の多様な欲求を考慮した社会システムの分析・設計手法である欲求連鎖分析(WCA,
Wants ChainAnalyis)を開発しました.以下に,本研究で得られた知見を示します. (1) 人の欲求は,動作主・対象という考え方を導入することによって,利己的欲求・利他的欲求および自力・他力から成る2×2マトリクスに分類できる (2) 2×2マトリクス内の欲求は,さらに,マズローの7分類等を用いて分類できる (3) WCAでは,欲求連鎖ルールを基に,全てのステークホルダーの欲求の充足・不足状況を把握できる (4) WCAは,自治体,企業,NPOの活動の分析ツール,成功・失敗ビジネスの分析ツール,社会調査ツール等として利用できる (5) WCAは,定量的分析ツール,CSRツール,宣伝ツール,教育・研究ツール,新規ビジネス発想ツール等としての発展可能性を有する 参考文献(詳しくは以下の文献を参照してください) (1) 杉山のぞみ,欲求連鎖分析を利用したコーズリレーティドマーケティングのコンセプト設計手法,慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科2013年度修士論文、2014年3月 (2) 麻生陽平,2×2欲求マトリクスを用いたマーケティング・ニーズ分析とコンセプト開発―心理的価値をデザインするマーケティング・アプローチ,慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科2011年度修士論文、2012年3月 (3) 牧野由梨恵,白坂成功,牧野泰才,前野隆司,欲求連鎖分析(人々の欲求の多様性を考慮した社会システムの分析・設計手法),日本機械学会論文集C編,Vol. 78, No. 785, 2012年1月, pp. 214-227 (4) Takashi Maeno, Yurie Makino, Seiko Shirasaka and
Yasutoshi Makino, Wants Chain Analysis: Human-Centered Method for Analyzing and Designing Social Systems, ICED 2011, pp. 302-310 (5) 牧野由梨恵、欲求連鎖分析を用いた環境配慮行動促進システムの提案、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科2010年度修士論文、2011年3月 |