あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記


プロローグ

1 富士

 

 台風一過の秋空の下、僕たちは富士山麓をドライブしていた。僕たちの車は滑らかに舗装された真っすぐな道を走った。窓の外には山麓の穏やかな斜面が広がっている。道路沿いに群生するすすきが次々と通り過ぎてゆくのが見える。風が、小麦色のすすきをたなびかせて流れてゆく。すすきの向こうには低木が無数に林立し、斜面を山頂に向って延々と埋めつくしている。そして遥か遠景には、富士の稜線が青空にくっきりと浮び上っているのが見える。

 富士山。

 久しぶりに、雄大な自然を見た気がした。

 人の手によるものは道路と車だけで、それを取りまくパノラマはすべて自然の創造物である世界。一人の人間が小さく見えるような、広がりと威圧感を持った世界。長い年月を経て、巨大な地球のエネルギーによって形成された世界・・・・・・。単純な、爽快な感動を覚えた。

 ふと、アメリカを思い出した。この感動はアメリカで感じたものだ。そう、かつてアメリカに住んでいたころは、こんな種類の感動をあたり前のように享受していたのではなかったか。広がる大地。土と、岩と、緑の世界。そしてそれらに調和した人の生活。

 忘れていた遠い昔を思い出したような気がした。

 

 日本の自然のシンボルともいえる富士を見ながらアメリカを思い出したことが自分には愉快だった。アメリカは良かった。感動があった。しかし日本も捨てたもんじゃないじゃないか。そんなことをぼんやり思いながら、僕はハンドルを握りしめた。

 助手席に目をやると、妻もいつになく静かに外を見ている。彼女もきっと、アメリカで出会ったころのことを思い出しているのだろう。そう思えた。

 僕たちは、パノラマの中をまっすぐに走り続けた。

 

2 契機

 

 2年間のアメリカ生活を終えて帰国してから1年も経つと、かつての日々は、非現実的に感じられるようになっていた。まるで夢だったかのようだ。自分が本当にアメリカで生活していたのかどうか確信が持てないと言っても過言ではない。日本でのサラリーマンとしての日常とあまりにもかけ離れているためだろうか。

 そしてある日の大自然への感動。何と表現したらいいのだろう。胸の底から沸き上がってくるような高揚感。この感じを覚えた場所が、アメリカにはいくつもあったことを思い出した瞬間だった。胸の奥底に眠っていたアメリカへの憧憬がよみがえる思いがした。

 

 僕は、北カリフォルニアの常春の地、ベイエリアの一角にある学園都市バークレーで2年間を過した。ある精密機械メーカーから留学した、カリフォルニア大学バークレー校機械工学科の客員研究員として。その日々は自分なりに充実していたと思う。勉強したし、研究もした。よく遊んだし、旅行もした。人々と出会い、自然と出会った。いろいろなものを見、いろいろなことを思った。

 

 僕にとって留学の最大の目的は、大学での研究を行うことによって研究者としての知識、能力を高め、留学の成果を帰国後の仕事に生かすことだった。会社に費用を出してもらった上での留学だったから必然に思えた。そして、帰国後の1年間を、僕はそのまとめのフェーズとして過してきた。その間僕は2つのことを行った。会社で新しい研究テーマを花開かせること、それから、自ら博士号を取得すること、だ。幸い、会社では面白いテーマを始めることができたし、個人的には工学博士になることができた。

 日本で学位を取得するためには、2つの道がある。1つは大学の博士コースに行く方法。もう1つは、いわゆる論文博士といって、仕事をしながら論文をいくつか執筆し、それらを博士論文にまとめることによって取得する方法である。僕の場合は後者であり、留学前後の研究内容をまとめ、出身大学の恩師に見てもらうことによって博士号を得ることができた。

 会社での仕事とは別の私的な時間に自分の研究内容を論文にまとめることは、僕としては面白い作業だった。博士号取得は留学前からの目標でもあったし、留学の成果が自分の資格という形に残ることへのやりがいもあった。他のことには目もくれずに、趣味のように論文に熱中した1年を過したものだ。

 こうして留学当時の研究をまとめた論文は、自分の一時期を記した思い出の書物となった。

 

富士に感動したのは、ちょうど博士号取得のために行う行事の多くが無事終ったころだった。そして思い出したアメリカでの感動。

そうだ、アメリカで得たこと、感じたことは、研究以外にもあったのだ。突然思い出した。注力していた目標が達成され、心に余裕ができたからだったかも知れない。一度思い出すと、あの頃の経験を書きとめておきたいという思いが高まってきた。

 

 まず、自分のための自分の記録として。また、できればアメリカに興味を持つ若い人たちのために。

 

 今や日本人の200人に一人が海外に住む時代だ。僕のわずか2年間の記録など取るに足らないかも知れない。しかし、それぞれの在外日本人の経験は個別に異なるはずだ。平凡な一人のエンジニアの記録にもそれなりの独自の視点によるそれなりの価値があるかも知れない。そう思うと、博士論文に次ぐ2つ目の書物を執筆したいという衝動は抑えられないものとなった。

 若く稚拙な文章だが、アメリカ生活での自分なりの驚きや感動をつづったささやかなエッセイに対し、何か感じてもらえれば幸いである。(1993年夏)

 

3 エンジニア

 

 僕はエンジニアである。

 なぜエンジニアになったか。

 子供のころ、資源のない日本は工業化によって戦後の発展を成し遂げたと習った。科学技術の進歩こそが、日本の、世界の進歩であると。確かに、世の中に物があふれ便利になってゆくことが人々の幸福につながると思えた。

 そして僕はたまたま数学や理科といった科目が得意だった。日本ではこのような人間を「理系」という枠にはめ込むことになっている。自然に、自分は理系の人間だと思った。

 

そこまで枠をせばめて、かっこ良さそうだったのは科学者だった。だから少年のころの僕の夢は、科学者になり何か大きな難問を解決してノーベル賞を取ることだった。逆にかっこ悪かったのはサラリーマン。決して大企業の歯車にはなるまいと思っていた。

そして大学受験。科学者になるためには理学部の物理学科あたりに進学しなければならなかったのだが、ここで工学部機械工学科を選んだ。科学者は創造的であらねばなるまい。しかし大学受験生のころの自分には、自分が他人よりも独創的な研究をやっていける自信がなかった。試験の点は悪くないが個別の仕事をさせると物にならない人間が多いというちまたの話に、自分がそれだったらどうしようと思った。自分の、偏差値以外の実力がわからなかった。

 

 今思えば、受験生にそんな判断力があるはずがない。日本の高校までの教育カリキュラムの中に、独創性を発揮させるようなメニューはほとんどないからだ。僕の通っていた高校は私立の進学校だったため極端だったのかも知れないが、数学や物理の授業の目的は、歴史的に構築された体系を表面的に暗記し、与えられた問題を迅速に正確に解く技術を磨くことだった。そうしなければ受験戦争に効率的に勝ち抜けなかった。こんな教育制度の中では、自分の独創性をみがくどころか、そのレベルを知ることすらできない。

 18歳の少年に自分の進路を決めさせる日本の制度は弾力性が小さいと思う。もちろん少年がしっかりと調査し毅然たる意志を持って専門分野を選択すればよいという主張は合理的だが、受験勉強に追われる日本の高校生にそれが可能だろうか。

 よく知られているように、アメリカの大学では転学科が容易である。バークレーの友人の中にも、コンピュータサイエンスから神学、天文学から化学のように専門を変えた者が多い。こんなシステムを日本の大学も採り入れられないものか。

 また、アメリカの大学の学科は日本の理系、文系という枠では考えられない。例えばすべての四年制の学科を卒業した学生が医学部に進学する権利を得る。MBA(経営学修士)しかりである。理系、文系と言う分類はナンセンスなのだ。なのに日本では、医学は理科系、経営学(は、日本の大学ではほとんど教えられていないが。)は文系、という分け方をする。硬直的である。

 若い人に枠をはめることは、個人の能力の可能性を閉ざすことにつながるのではないか。

 

 さて、自分の能力を判断する能力を磨き得なかった僕は、就職に有利でつぶしのきく工学部へと進学した。そして他の多くの工学部学生がそうしたように修士課程を経て、ある精密機械メーカーに就職した。気がついてみると、なりたくなかったはずのサラリーマンになっていたわけだ。

 アインシュタインのような科学者にはなれなかったが、エンジニアもノーベルやエジソンのように発明をすることはできる。創造的ではある。また日本では、大学よりも企業のほうが研究のために自由になる設備や金が多い。そんなわけで、研究という観点から見ると、かつての夢と現在とのギャップはさほど大きくもなく、僕の選択も満更でもなかったという気もする。

 

4 留学まで

 

 僕が今の会社を選んだ理由は、輸出比率が70パーセントを越える国際企業であること、10年で売上が十倍という成長企業であること、それから実力主義を社風にうたっていること、だった。そして企業理念は、世界の繁栄と人類の幸福のために貢献すること、そのために企業の成長と発展を果たすこと、だ。なかなかクリーンで頼もしい理念だと思った。

 もちろん、経営者が創業当初からこんなすばらしい理念を持っていたわけではないかも知れない。半世紀前にドイツのライカのカメラを模倣することに始まったころは、他のメーカーと同様、欧米に追いつき追い越すことを目標としていたのだろう。

 幸運だったのは、多くのより大きなメーカーと違って、基幹産業に属さず、公共事業に無関係だった点だろう。おかげで国の保護、調整や他社との談合のないクリーンな体質を維持できたのだと思うし、他人、特に国の力を借りずに自らの力で国際的な成長を目指す体質になり得たのだと思う。

 エンジニアとしてこの社風の中にいると、会社が独創性を重視していることが良くわかる。基本的に他者の真似をしてはならない。他社の特許に抵触する技術開発は行ってはならない。従ってエンジニアは好むと好まざるとにかかわらず、新規性のある技術を用いた新しい製品の開発を行うことになる。よく言われる業界の横並び意識とは無縁とならざるを得ない。

 

 一方、近年、日本は欧米の基礎技術にただ乗りして、応用し製品化するのがうまいだけではないかという議論がある。独創的な技術しかやらないという社風の中にいる僕としては心外だった。うちの会社は違う。とはいえ、僕の会社も基礎科学を追求しているわけではなく、純粋な独創技術の上に成り立っているわけではない。

 確かに、基礎的な科学の分野では欧米の方が日本よりも進んでいるという議論は一理あると思う。

 なぜだろう。素朴に、知りたかった。

 また、それを知り、創造的たり得れば、今の会社での立場を築けるはずだ。そう思った。

 

 ちょうど会社には技術者海外留学制度という制度があった。年間百人弱も留学させるという大手電機メーカーと比べると規模は小さいが、社内のエンジニア数名を、2年間海外の大学の研究員または修士課程学生として派遣する制度だった。

 僕は、僕の研究分野で世界のトップレベルにあるカリフォルニア大学バークレー校機械工学科のコンピュータメカニクス研究所への留学を希望し、幸い合格することができた。社内の留学応募用紙に僕が書いた目的は、

 

(1)  アメリカの基礎的な研究の方法論を学ぶこと。そして実際に研究を行うこと。

(2)  国際人としての視野を身につけること。

(3)  英語力をみがくこと。

 

そしてそれらを帰国後に会社の仕事に生かすこと、工学博士号を取得すること、だった。これらを身につければ、会社の望むエンジニア像にちょうど当てはまるに違いない。会社のためになる。そして自分のためにもなる。うまく会社と自分の利害が一致するわけだ。

 

  利害が会社と一致しないので留学の応募用紙には書けなかったほかの目的もあった。アメリカの国立公園や観光地を見てまわること。週末にゴルフを楽しむこと。更に、期せずして達成された最も重要な留学の成果は、結婚相手を見つけてきたこと、だったかもしれない。



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