あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記



Berkeley から Golden Gate Bridge を望む

1 渡米

 アメリカ西海岸、カリフォルニアといえば日本でもあまりに有名な地域だ。しかし、この州が南カリフォルニアと北カリフォルニアという二つの文化圏に分れていることを知らない日本人は多い。南カリフォルニアはロサンジェルスを中心とした地域である。日本でのカリフォルニアのイメージは実は南カリフォルニアのそれであることが多いのではないだろうか。太陽と青空と海の国。常夏の国。ハリウッドの華やかさ。車や銃の溢れた喧騒の都会・・・。これに対し北カリフォルニアは、ロサンジェルスから北に500キロ離れたベイエリアを中心とする地域だ。ベイエリアとは読んで字の如くサンフランシスコ湾沿岸地域のことだ。サンフランシスコ湾は、ゴールデンゲートという海峡で太平洋と接する大きな湾だ。湾岸には十数個の都市が連なっている。海峡の南には、ベイエリアの中心都市サンフランシスコが、さらに南にはサンノゼやパロアルトといった都市のあるいわゆるシリコンバレーと呼ばれる地域がある。東岸にはオークランドやバークレーがある。そして、海峡を南北につなぐ橋がゴールデンゲートブリッジ。サンフランシスコとオークランドを結んで湾を東 西に横断するのが元祖ベイブリッジだ。バークレーはオークランドのすぐ北側にある、人口10万人ほどの学園都市だ。

 北カリフォルニアの気候は涼しく、年間を通して摂氏20度前後だ。南カリフォルニアが常夏の国であるのに対し、こちらはさながら常春の国といったところだ。

 1990年7月初めのある日、僕は飛行機でサンフランシスコ空港に到着した。さあ、カリフォルニアだ。青空と熱さという南カリフォルニアのイメージを胸に描いてタラップを降りた僕の北カリフォルニアへの第一印象は、思いの他の涼しさだった。空は曇り、気温は20度位だった。梅雨の日本に比べ格段に涼しい。が、その時はカリフォルニアにもたまには寒い日があるのかな、くらいに思った。
  そしてタクシーでバークレーへ。運転手に、住むことになっているアパートの住所を見せた。

  1822 Francisco Street #8, Berkeley, CA

 運転手はうなずき、車は走り出した。
 バークレーまでは1時間弱、サンフランシスコをぬけ、ベイブリッジを渡るルートだ。僕は初めて見るカリフォルニアの景色に釘付けになっていた。

  空港からサンフランシスコまでの道沿いには、所々に小高い丘が広がっている。丘には一面に黄土色の雑草が生え、緑の木はほとんどない。殺伐とした寂しい景色だなあ、と思った。枯れた植物や砂漠を連想させる色だ。
 日本と違って乾燥しているせいだろう。
 後で聞いた話では、カリフォルニア人はこの色が好きだという。僕には黄土色にしか見えないこの色が、どうも金色に見えるらしい。ゴールデンゲートという海峡の名も、そのあたりの草木や岩がこの色をしていることに由来するという。
 緑の木々に囲まれて育った僕には人を寄せ付けない寒々とした印象を与える色だが、この色の自然に囲ま育つと輝かしい金色に見えるのだろうか。何だか不思議な気がした。
  実は日本人である僕も、これと似た色を豊かな色と感じることがある。小麦の色や、頭を垂れた稲穂の色だ。収穫の豊かさを連想させるこれらの色は、金色といってもいいように思える。


  文化的背景と対象によって、色という基本的な物理量でさえもかなり違って感じられるということだ。面白い現象である。こおろぎやすずむしの鳴く声を、日本人は音楽を聴く時と同じ右脳で、欧米人は雑音と同じ左脳で処理しているとう話を聞いたことがある。色に関しても同様な研究が行われてもいいかと思う。

  さて、タクシーはバークレーに到着し、これから住むアパートの前に止まった。さあ、着いたぞ。と、思う間もなく最初のハプニングは起こった。僕は成田空港で両替してきた100ドル札で料金を払おうとした。ところが転手は釣りがいという。100ドルといえば当時の価値で1万3000円ほどだ。釣りがないとは何事だ。しかし、ないものはない。仕方がない。ちょうど切手を買いたいと思っていた。郵便局へ行ってもらい、切手を買ってお金をくずしてから、再びアパートに戻ってもらった。代金を払いながら、アメリカには釣り銭も用意しない失礼な運転手がいるものなのか、と思った。

  その次の日には、さっそく開設した銀行の当座預金口座からATM機で100ドルをおろした。すると、20ドル札が5枚出てきた。100ドル札が切れているのかと思った。

  あとで思えば、あの時のタクシーの運転手もATM機も何ら特殊ではなかったのだった。それから2年間、僕は100ドル札や50ドル札を見ることはなかったのだ。
   アメリカはカードと小切手の社会であり、実は人々の財布には数10ドルしか入っていない。必要ないし、危険である。
  アメリカに着いて間もないころ、僕は財布に数100ドルもの現金を入れて平気で買い物していたものだ。現地の感覚からすると異常である。今になって思えば、襲われなくて幸運だった。

  バークレーに着いたのは夕方だったので、その日は近所のスーパーマーケットでできあいの弁当を買って帰った。中華炒めオーバーライス。なかなかいける味だった。カリフォルニア米も案外うまい。この後も中華料理にはたいへん世話になるのだった。
  7月だというのに、夜も更けると寒かった。気温は10度くらいだろうか。
  アパートは家具付きで、寝室には大きなべッドが置かれていたものの、布団は備え付けられていなかった。もちろんこの日、布団を買ってくる時間はなかった。カリフォルニアは暑いので一日くらいかけ布団が無くても平気だろうとたかをくくっていたのに、なんということだ。北カリフォルニアについて知識がなかった故の誤算だった。しかたなく、ベッドの堅いマットの上に横になり、持ってきたバスタオルをかけて丸くなって眠るしかなかった。

  何はともあれ、ここが、これから2年間生活する場所だ。
  胸を躍らせ、しかしベッドの上でちぢこまり、僕は鼻をすすった。



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