あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記



2 アパート

  僕の住むことになったアパートは、一階が駐車場、二階から四階に八戸づつ住居のある古い鉄筋の建物だった。フランシスコストリートという古い成熟した家並みの通りに面している。東西に伸びたその通りの西側を望むとサンフランシスコ湾が見えた。大学へは歩いて約20分。ちょうど中流階級の人々が住むあたりだ。雑に舗装された車道は両わきに駐車しても車がすれ違えるほどの広さで、その隣に歩道がある。車道の両側はいつもそのあたりに住む人の車で埋めつくされていた。車道と歩道、歩道と家の間には、家ごとにさまざまな植物が植えられていた。ほとんどの家の前には大きな古い木がはえていて、車道を覆い隠さんばかりに枝を伸ばしていた。木々の間には花や雑草が茂っていた。もう少し高級な家並みになると家の前に芝生が広がるのだが、ここはそれほど高級ではなく、草木のはえる道路のすぐ脇には木造の家が立ち並んでいた。とはいえ、車がすれ違うのに苦労するような狭い道の両側にブロック塀の並ぶ 東京の中流の住宅街とは雲泥の差がある。茂った木々は道行く人に安らぎを与えてくれるし、向かい合う家の距離は、狭いといっても東京あたりの3倍はある。それに、背の高い塀のないことも住む人に解放感を与えてくれている。

  僕の部屋は2階の一番奥だった。10畳ほどのリビングルームと6畳ほどのベッドルームのある部屋で、日本風に言えば2DKといったところだ。家賃は90年の時点で540ドルだった。 

  普通留学生は渡米後最初にアパート捜しに苦労するのだが、僕の場合渡米前に研究室の恩師、ブジー教授がアパートを紹介してくれていたので、苦労する必要がなかった。

  アパートに到着した日に、4階の管理人の部屋に挨拶に行くと、老夫婦はなぜだか大きなグラスを一つ貸してくれた。水を飲むのに必要だろうという心遣いだろうか。アメリカの普通のグラスが余りに大きいのに驚いたものだ。もっと驚いたことには、リビングの壁の写真にブジー教授が写っていた。管理人の老夫婦と、ブジー教授と婦人、そして若い女性が2人、合計6人が写っていたのだ。

  ブジー教授とは、これからお世話になるカリフォルニア大学機械工学科コンピューターメカニクス研究所の機械学科長兼研究所長だった。弾性学の大家で、最近ではハードディスク装置などのコンピューター機器のメカニクスに関わる者なら知らぬ者はない、という人である。僕の東工大時代の指導教官小野教授と親しく、僕が学会で論文を発表した際に、小野教授が座長だったブジー教授を僕に紹介して下さったことがきっかけで、僕はブジー教授のもとに留学することができたのだった。ブジー教授は、背が高くハンサムな人である。日本にいたら女子大生の人気の的になるタイプだ。語り口も紳士で、アイビーリーグ出身だけあってトレードマークの紺のブレザーがきまっている。さらに、学科長に上りつめただけあって、もちろん研究能力もあり政治力もある。日本と違って教授の給料はいいからリッチでもある。

  ブジーとは、Bogyと書く。ボギーと読むとおばけとか悪鬼という意味になる。おばけどころかまさに紳士という人であり、恩師に対しておばけなどと書いてしまった僕はそれだけで罰当たり者である。

  さて、僕はアパートの管理人さんに、この人はブジー先生だ、知っている、と写真を指し示した。老紳士は、彼は義理の息子、これが私の娘、この二人は孫娘たちだとにこやかに教えてくれた。

  後で知ったのだが、このアパートはブジー教授が同僚の教授と共同で持っているアパートなのだった。義理の両親を見晴らしの良い四階に住まわせてあげ、管理を任せていたということらしい。

  取りようによってはちゃっかりしているようにも思える。自分の研究室に企業からの客員研究員を呼び、企業に研究費を払わせ、さらに家賃まで取る。最初はそうなのかと思った。ビジネス上手。

  だが後に、同じアパートに友達と二人で住んでいたマユミという日本人学生の話を聞いて、そうではないと思うようになった。彼女は十歳のときに両親と共に渡米し、その後ずっとアメリカに暮らしていた。従って英語はネイティブ同様に話せる。そんなこの辺りの事情に詳しい彼女が、ここは安くて環境も良く大学に近いので人気のアパートで、何十人もの学生が空くのを待つ行列に登録しているのだと言う。確かに、ここの住人はほとんどがUCバークレー学生だった。彼女は僕が引っ越してきたとき、どうして右も左もわからなそうな日本人が突然このアパートに入れたのか思議に思ったそうだ。ここの住宅事情を良く知らなければこの人気のアパートに入れるはずがない、と。どうやら僕は家主の鶴の一声によって待ち行列の順番を抜かして割り込んだということらしい。

  そんなわけで、僕はブジー教授の経営する安くて便利なアパートに住むことになった。

  ところで、いくつか日本と勝手が違って驚いたことがある。

  まず、湯。湯用の蛇口をひねると湯が出てくる。ところがアパートのどこを捜してもガス湯沸かし器や電気温水器が見当たらない。不思議に思っていたら、近所に湯を沸かす施設があった。なんと、湯は暖められた後に専用の水道管を通して各戸に供給されていたのだ。途中で温度が下がってしまって効率が悪そうに思えるのだが、各戸で沸かすよりもコストか何か、メリットがあるのだろうか。

  それから、ディスポーザー。野菜の切りかすや残飯は流しの下のタンクに直接流せる。そしてタンクが一杯になったところで流しの脇のスイッチを押すとジューサーのように砕いてくれる装置がディスポーザーだ。砕かれた食べ物はタンクを出てからどこにたまるのだろう。きっと流しの下にたまっていて、たまったごみを定期的に捨てるのだろうと思い、扉を開けて捜したのだがこれも見つからない。実はそのまま下水に流されていくというのだった。三角コーナーが不要で、生活者にとってはとても便利だ。しかし強引なやり方ではある。強力な浄水設備が必要だろう。

  風呂は当然、日本でもホテルにあるような、背の低い入浴槽が洋式トイレと同じ部屋の中に設けられているタイプだった。僕は映画に出てくるような泡の入った風呂に入りたいと思い、あるときアメリカ人の友人に聞いた。どうすればいいのか、何をどこで買ってくればいいのか。彼女は大笑いして、それはバババだと言う。バババ?聞き返すとスペルを紙に書いてくれた。bubble bath 。バブルバス。自分のヒアリング力にショックを受けてしまった。彼女は笑いながら続けた。だけどそれは女性が使う物よ。化粧品売り場にあるから、自分の彼女へのプレゼントのふりをして買いなさい。でないと変に思われるかもね。言われてみれば、映画でバブルバスに入っているのはいつも女性だった。しかし化粧品店に入るのは勇気がいる。躊躇していたら、ある日スーパーの入浴用品売り場に子供用のバブルバスを発見した。これを買ってみよう。

  僕は、いちごの甘い香りのする泡の風呂に入った。なかなか快適だった。しかし、子供用のバブルバスで大の人が鼻唄を歌っている様は人には見せられまい。いちごのバブルバスでの入浴は僕の密かな楽しみとなった。

  フランシスコアパートは居心地のいいアパートだった。日本と勝手の違う点はあったものの、それはそれで新鮮だった。

  今もあのアパートは、あの頃と同じようにバークレーの学生たちの活気に満ちあふれていることだろう。



前へ


目次に戻る