あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

4 人種のるつぼ

  UCバークレーの特徴的な点は、人種が多様なことである。92年の大学の発表によると、新入生の3分の1が白人、3分の1がアジア系、3分の1が少数民族(黒人、ヒスパニックなど)だという。ついにアジア系学生の数が白人を抜いたことが大学の新聞で話題になっていた。ちなみにアメリカではなぜだか白人をwhite 、黒人をblack 、黄色人種をAsian と呼ぶ。アジアにも白人や黒人はいるので、色で統一して黄色人種をyellowと呼べば良さそうなものだが、2年間の間yellowという呼び方は一度も聞かなかった。侮辱的なニュアンスがあるためだろうか。この文章においては、アメリカでの呼び方に倣って黄色人種のことをアジア系と書くことにする。

  UCバークレーには海外からの留学生も多い。特に台湾や韓国からの留学生が多い。

  僕のいた研究室の9人の大学院学生の場合も、過半数がアジア系だった。台湾、韓国からの留学生が2人ずつ、韓国系カナダ人が1人、残る4人がアメリカ人で、そのうち3人が白人、1人が韓国系アメリカ人だった。

  アジア系の留学生が多い理由は、MITやスタンフォードと異なり公立大学であるため学費が安いこと、留学生を多く受け入れているため相対的にGDPの低い国からの留学が容易であること、近くにチャイナタウンやコリアンタウンがあり住みやすいこと、カリフォルニアは太平洋に面していてアジアから近く感じられること、などがあろう。

  アメリカ=アングロサクソンの国というイメージを持って渡米した僕は、初めアジア人が多いのに驚いたものだ。自分と似たような顔の者が大勢いてほっとしたのも事実である。正直言って、どうしてもアジア系の人には親近感を抱いてしまう。

  これは自分の人種偏見に他なるまい。

  渡米後最初に考えさせられたのはこのことだった。人種問題。

  日本に育った僕には多民族国家がどういうものなのか、なかなかわからなかった。今もわかっていないかも知れないが、問題意識を持ったぶんだけ進歩かも知れない。

  どこまでが人種偏見なのかがわからない。アジア系アメリカ人の年収が増大している、とか、黒人の失業率が高い、とアメリカの新聞には平気で出ている。ところが日本の政府高官がアメリカには教育レベルの低い少数民族がいる、と言ってはいけない。アパルトヘイトのような差別はいけない。しかしアメリカの少数民族は多少成績が悪くてもバークレーに入れる。ネイティブアメリカン(インディアン)には補助金が出る。

  優遇する方向ならいいのか。悪いのか。感情的だと悪いのか。統計的ならいいのか。

  人種間のいろいろな差異について、人々が歴然と認識しているのは明らかな事実だ。何しろ実際見るからに違っているのだから。それについて一般人は言及してはいけないということなのだろうか。しかしそれでは言論の自由という基本的人権を侵害していることにはならないのだろうか。

  一人のユダヤ人女性が答えを教えてくれた。タブーという言葉がある。アメリカでは、人種や外見、年齢、性差、宗教、収入等について話すことはタブーなのだという。(つまりいま、彼女がユダヤ人であると言及したこと自体、僕はタブーを侵しているのだ!)人々の違いを認め、それを認め合って言及しないというルールの上にアメリカの社会は成り立っているのだ。日本のような共通の価値観を前提とする社会とは本質的に異なり、わかりにくい。だから、海外に出てゆく日本人は、自分はこの感覚が生い立ち上鈍いのだと認識して気をつける必要があると思う。

  そういえば、人種、外見、年齢、性差、宗教、収入について、仲のいい友人以外の者に2年の間聞かれたことはなかった。就職のための履歴書にも、人種や年齢を記入する欄がないという。僕は頭髪の後退状況が年齢の割りにはやや早く、日本では友人が揶揄する的になるのだが、アメリカでは一度も言及されず、不愉快な思いをしないで済んでよかった。髪の薄い人が日本よりも多いことにも因るだろうが。

  他人と異なるということによって差別されない社会。この事が実現された国は、誰にとっても住みやすい理想の国かも知れない。もちろん、アメリカには今も差別が残っている。しかし、それを克服しようとしている。差別を直視し、戦う人々がいる。外国人差別や男女差別などの問題が歴然と残り、これを克服する動きが遅々として進まないばかりか認識すらも希薄である日本と比較すると、遥かに理想の国に近い国なのではないかと思う。



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