あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

6 ホームレス

  かつて学生運動やヒッピーを生み出した先進の町バークレー。その面影は今も残っている。

  大学の正門、セイザーゲイト付近の広場では、今も何人かのスピーカー(演説者)がそれぞれ適当に場所を陣取って街頭スピーチをしている。そして、彼らの周りを多くの学生が取り囲んでいる。話題は、教育問題、環境問題、人権問題など社会性の高いものから、ちわ話まで様々だ。演説者も、元気な学生だったり、酔っ払いのおっさんだったり様々である。映画「いちご白書」で描かれた学園紛争のころのバークレーが違和感なく想像できる。

南カリフォルニアのロスアンジェルス出身の人が、北カリフォルニアは古くさくてやってらんねーよ、というような事を言っていたことがある。シリコンバレーのあたりは古くさいどころか産業の最先端なので、ここバークレーやサンフランシスコあたりを指して言っていたのだったと思う。だが、古さを残した街もいいではないか。それぞれの町がその個性を発揮しつつ共存できることが、アメリカの、日本にはない良さだと思う。

  70年代の流行以来、ヒッピーも、ここバークレーには生きのびている。大学の正門からまっすぐに伸びた活気あふれるテレグラフアベニューには、今も、髪をぼさぼさに伸ばし、破れたベルボトムのジーンズをはいた青年たちが大勢いる。その多くは家を持たないホームレスである。

  日本では浮浪者というと、職を失い年老いた悲惨なイメージがある。アメリカにもそのような者はいるだろう。ニューヨークでは冬の寒さに多くのホームレスが餓死したというニュースがあった。サンフランシスコでは、エイズで職がないので金をくれ、と書いたプラカードを持ったホームレスをたくさん見た。失業し、離婚し、慰謝料を払い、最後の財産だった車を売ってすべてを失った結果ホームレスになってしまったという人の話も聞いた。

  しかし、ここバークレーのホームレスたちには一般に陰鬱なイメージはない。学生街だからだろうか。彼らは元気で、若い。顔色もいい。UCバークレーに通う学生もいるという。

  彼らにはテリトリーがあるらしく、例えば北門の近くの中華料理屋の脇には、必ずいつも同じ人が座っている。なぜか犬を連れている人が多い。いつも同じ場所にいるため、街行く人とも顔見知りであり、彼らと立ち話をしている通行人もよく見かける。きれい好きな人も多いようで、よく自分のテリトリーの回りを掃除している。

  僕の通学路沿いのコンビニエンスストアの脇にも、いつも同じホームレスがいた。彼は他のホームレスと同様、道行く人に、Spare change. (小銭を。)と声をかける。初めのころ僕は無視して顔も見ずに通り過ぎていた。ある時アメリカ人の友人にこの事を言うと、それはよくない、Sorry.くらいは言うものだ、と戒められた。言われてみれば当然かも知れない。彼らと対等な人間として接する意志があるなら、話しかけられて無視するなどという無礼な行為はできないはずだ。

  それから僕は、彼がいつものようにSpare change. と話しかけてきたら、申し訳ない、という顔とジェスチャーで、Sorry.と言う事にしてみた。すると、Have a nice day.などと答えが帰ってくる。優しい事を言ってくれるではないか。

  僕は毎日、短い会話をして彼の前を通り過ぎるようになった。Sorry に毛がはえたくらいの他愛のない挨拶だけだったが、何だか友達になったような気がした。

  名も知らぬ彼は、今もコンビニエンスストアの前に座っているのだろうか。

  しかしなぜ彼らは職につかず、気ままな路上生活を送っているのだろう。

  敢えて、自由な生活を選択したのではないだろうか。

  日本的な価値観で考えると、仕事をしないで遊んでいることは悪である。しかし、アメリカは多くの一般人も金をためて早くリタイアすることを楽しみにしている国である。仕事に対する価値観は違うだろう。家を持たないことも、日本では悪だ。世間体も悪い。これに対しここでは、ホームレスも一般の人と対等に接している。路上生活に対する価値観も大分異なるような気がする。それに加えてバークレーは気候も温暖である。人の目を気にせず気ままな生活を送りたいものにとって、ここは最適な場所かもしれない。

  社会的制約に束縛されない彼らが一面うらやましいような気もする。

  例えば、例えに出すにはあまりに飛躍しているかも知れないが、彼らは日本の満員電車に乗らなくていいのだ!何て自由なんだ。

  僕は満員電車が嫌いだ。留学から帰ってきて、更にいやになった。

  どうして人間が、職場に通うために何をすることも許されないような鮨詰めの不快な状況に毎日置かれねばならないのだ。昔テレビで見たドラマ「ルーツ」を思い出す。多数のアフリカ人奴隷が鎖につながれ、寝返りも打てないほどに船底に詰め込まれて長い日数をかけて新大陸に運ばれた奴隷船。赤の他人との許容最小距離は60センチと言われているのに、それをはるかに下回る距離を、無表情に身動きもできずに耐え続けることを強いる満員電車の環境は、あの奴隷運搬船となんら変りはないではないか。日本のサラリーマンたちがなぜこんな状態に我慢できるのか、僕には理解できない。陽気な人々がリラックスして談笑し合い、見知らぬ人にも話しかけるベイエリアの地下鉄のオープンな雰囲気に慣れていた僕は、帰国当初、電車にぎっしり詰め込まれた能面のような人々にぞっとしたものだ。もはや僕はこんな屈辱には耐えられない。

  幸い僕はいま、多摩川に注ぐ日差しと河川敷に咲く四季折々の花々を見ながらラフな服装で自転車通勤できる恵まれた環境にあり、奴隷電車に耐えなくて済むのだが。

  あんな不幸な思い(ただし不幸に気付いていない者は幸運ではある。)をしてまで会社に通い、わずかな可処分所得を受け取る日本のサラリーマンと比較して、バークレーのホームレスは不幸か。比較自体が不合理と言われるかもしれないが、どうも僕には対極に思える。

  何もない自由と、もののあふれた不自由。こんな比較への答えは出せまい。

  ただ、バークレーのホームレスたちの笑顔が、僕の脳裏には焼きついている。



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