あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

9 マユミとシンイチ

  マユミは同じアパートにいたUCバークレーの学生である。シンイチはやはりUCバークレーの学生で、大学の日系人サークル「TOMODACHI」に顔を出していて知り合ったゴルフ仲間である。この2人に何の関係もない。ただ2人は高校生のころロスアンジェルスの日本人学校で同じクラスだったことがあるという。

  2人とも12歳のころに家族と共にアメリカに来た。マユミは不動産屋の、シンイチは貿易会社のアメリカ駐在員の父を持っていた。2人は英語が堪能だった。もちろん日本語も完璧だ。

  語学に関して僕は面白い事実を発見した。というのは、10歳から12歳の間にアメリカに渡って来た外国人は完璧なバイリンガルになるらしいのだ。そして、それよりも幼い時だと母国語を忘れ気味になり、それよりも大人だと英語が完全でないらしい。サンプルは僕の友人たち。日本人、韓国人、タイ人などのUCバークレーの学生10数人だ。特に日本人と韓国人が多い。日本人は主に「ともだち」で、韓国人は教会で知り合った人たちだ。

  もちろん語学の才能が特に秀でた一部の人はこの法則に従わないのだろうが、僕の知り合った人たち一般には当てはまっていたようだ。バイリンガルになるタイミングはなかなか微妙なのである。

  マユミは、将来医学部に進学するつもりの生物学科の学生だった。彼女はずっとアメリカに住み続けるつもりだという。日本の家の狭さや物価の高さを引き合いに出して、あんなところに住みたくないと言った。

  おっしゃる通りだ。はっきりと論理的に分析されると僕には返す言葉がなかった。同じ賃金が得られるなら、明らかにアメリカでの生活の方が豊かだ。3000万円も出せばサンフランシスコへ車で20分の海の見える広い一戸建てが手に入る。食料品も安く新鮮で種類が豊富だ。レジャーも多様で安価だ。ガソリン代は日本の3分の1。高速道路は無料。車で30分も走れば、大自然が広がりキャンプやアウトドアスポーツの機会に満ちあふれた場所に行ける。そこでは人々が思い思いのレジャーや余暇にいそしんでいる。

  アメリカは物騒だという主張もあろう。しかし、治安の悪いのは一部の地域だけだ。多様性を許容する国家であるがゆえ、危険な一面をも持っているというだけだ。治安の悪い地域に行かないことや、日没後に出歩かないこと、家のセキュリティーに気を配ることなど、必要な処置を講じていれば何ら危険な目に遭う心配はない。

  さて、マユミは今や日常生活においてほとんど日本語を話さないという。友人のほとんどがアメリカ人だからだ。ロスアンジェルスの両親と話す時はもちろん日本語だが、弟とでさえ英語だという。日本語を話す相手はバークレーでは僕や僕の友達だけだったかも知れない。同じ日本人でありながら、マユミの環境があまりに僕と違うことが面白かった。立場は逆だが、マユミも同様な感じをもっていたに違いない。僕たちは、互いの家で友達と一緒に夕食のカレーやざるそばを作りながら、互いのことを色々と話したものだ。

  彼女は、アメリカに永住するつもりでありながら、アメリカ人になるつもりはないという。アメリカ国籍を取るのは簡単だが、日本の国籍は一度手放すと二度と取り戻せない。自分の子供の世代が日本人になるかアメリカ人になるかは彼らに任せるが、自分は日本人でいたいのだそうだ。

  自分がずっと日本人であることや、永住する場所と国籍が同じであることを当然と思っていた僕には新鮮な話だった。

  これから海外に暮らす日本人は増大してゆき、国籍に対する価値観も変わってゆくことだろう。

  シンイチは経営学科の学生だった。彼はマユミとは違って雇用が安定し治安のいい日本に住みたいと言った。そして実際に、卒業後は日本の大手メーカーに就職して行った。

  シンイチと知り合った「ともだち」は日系人のサークルで、メンバーの多くは日本語を話さない2世や3世だった。このサークルは、サンフランシスコで行われる「桜祭り」に参加したり日系人の老人を慰問するなど、日系人の問題を考えたりイベントを企画し推進するサークルだった。僕は日系人がどんな人たちなのか知りたくて顔を出したのだが、僕の印象では、彼らはぼくらに顔は似ているけれども、中身はアメリカ人だった。日本語を話さず、英語ではっきりと考えを述べ、大きなジェスチャーで楽しそうに笑う人達だった。

  冬のある日、僕は「ともだち」主催のスキーツアーに参加した。数10名の参加者はそれぞれ自分たちの車でレイクタホへゆく。レイクタホには貸別荘を何件か借りてあり、参加者は思い思いの部屋に持参した寝袋で寝るのだった。男女差別をしない国だけあって、男女ざこ寝だった。何の団体行動もない。食事には気の合った仲間同士、車で出かける。スキーもそうである。早朝から滑りに行く者もいれば、リノにギャンブルに行く者もいる。ずっと別荘に留まって読書をしている者もいる。

  そういえば語学学校のキャンプに行った時も日本のキャンプとの違いに驚いたものだ。日本のキャンプでは団体行動を行うことが重要である。みんな一緒にテントを組み立て、一緒に飯盒炊飯し、一緒に片付け、一緒にキャンプファイアーを囲む。僕が参加したアメリカのキャンプではテントも食事も用意されていた。そして、山を歩きたい者は歩き、バレーボールをしたい者はバレーボールをし、テントで眠りたい者はテントで寝、キャビンで寝たい者はキャビンで寝る。団体行動もなければ労働もない。協調性を第一に尊重するか、個人の自主性を尊重するかという国がらの違いである。

  貸別荘ではささやかなパーティが開催された。僕はここでシンイチと知り合ったのだった。

  彼は高校時代ゴルフ部にいて、今や腕前はシングルだという。高校時代には毎日のようにプレイし、1日72ホール回ったこともあるという。日本では考えられない恵まれた環境である。

  ゴルフを始めたいと思いながらきっかけをつかめずにいた僕は、ぜひ今度一緒にやりましょう、と誘った。かくしてシンイチは僕のゴルフの師匠となるのだった。彼は親切かつ丁寧に僕にゴルフを教えてくれた。彼の多大なる指導には今も感謝している。

  僕たちのホームグラウンド、ティルデンパークゴルフコースは大学の裏山を車で5分ほど上った所にあった。起伏に富み、自然あふれる公営のゴルフ場だ。料金は、土日のハーフラウンドが12ドル。平日は9ドルだった。なぜハーフの料金かというと、普通、僕らは9ホールだけ回っていたからだ。サマータイム制が導入されているため日の長い季節には日没は9時頃になる。従って、平日でも6時過ぎに始めれば楽にハーフラウンドを回ることができたのだった。

   シンイチに習い、アメリカでゴルフを始めた僕にとって、ゴルフとは大学帰りにゴルフバッグをかついで山の中を歩く手軽なスポーツだった。たまに海岸や砂漠の中にある高級コースに出かけることもあったが、それでも料金は18ホールで100ドル以下だった。気軽で楽しいスポーツだった。

   日本に帰って来てみると、ゴルフのイメージが余りにアメリカと異なることに驚いた。まず高いこと。こんなに金を出す価値がこのスポーツにはあるのか。次に遠いこと。早起きして遠くまで出かけなければならない。そして賭けること。アメリカではコンペなど無く自分とのマイペースな戦いだったのに、日本では実力にげたまで履かせて他人と競う賭け事だ。さらに雨でも中止でないこと。どうして雨や霧といった面白くもないコンディションでプレーしなければならないのだ。風呂に入ること。これは気持ちよくていい。ただしカリフォルニアでは汗をかかないので必要ないのだが。電動カートに乗ること。自分の足で歩きたいのに。キャディーがいること。自分でバッグをかつぐから自然の中で遊んでいる気分になるのに、どうしておせっかいなおばさんに愛想よくしなければならないのだ。最後に、自然を破壊すること。アメリカでは広大な自然のほんの一部がゴルフ場に作り替えられていて自然と調和し共存していたのに、日本のそれは、狭い国土をゴルフ場で埋めつくし、自然を破壊する悪者のように思える。

  さまざまな理由から嫌気がさして、僕は帰国後ゴルフをやめてしまった。特に、プロでもないのに勝負をすることがいやだった。誰かが勝ち誰かが負けるゼロサムゲームは生産的でない。

  スポーツは、ウィンドサーフィンやスキーのように、勝負しなくても楽しめ、自然と接するものが好きなのだ。アメリカでのゴルフはその範疇に入っていたのに。

  シンイチたちとのあのくつろいだゴルフが懐かしい。

  ゴルフの話が長くなってしまった。この章の主題は、アメリカで育った2人の日本人についてだった。

  同じころにアメリカに来たマユミとシンイチ。一人は今後の人生をアメリカで過ごすと言い、一人は日本に帰ると言った。大ざっぱな言い方をすれば、1人はアメリカ的で、1人は日本的な性格だったからかも知れない。マユミははっきりと考えを述べ、シンイチは礼儀正しかった。マユミにはアメリカ人の友達が多く、シンイチには日本人の友達が多かった。同じような環境に育ってもその将来の生き方が違っているのは、持って生れた性格の違いなのだろうか。

  進む方向は違っていても、アメリカに長く暮らした2人は、僕らにできない経験を重ねてきたためかいずれも生き生きと輝いていた。

  いろいろな日本人に、いろいろな人生。

  どんな人生であれ、いい人生にしたいものだ。



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