あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

12 子供のころ

  木々がまっすぐに天に伸び、太平洋の風が涼しいサンタクルーズ。

  ある秋の週末に、僕は教会のメンバーとサンタクルーズにキャンプに行った。レッドウッドトゥリーに囲まれた静かなキャンプ場だった。キャンプに参加したのは約30名。20代前半のバークレーの学生がほとんどで、僕はケンやアンディなど、指導者格の者と同世代だった。

  楽しいキャンプだった。青空のもと、遊び、騒ぎ、語らい、食事をし、海を見、森をさまよい、星を見、月を望んだ。

  1日目の午後、アンディは広場でラグビーボールの投げ方をコーチしてくれた。手首のスナップで回転させるのだ。体の前で受け止めて。

  僕たちは青空のもと、サンタクルーズの草原を走り回った。

  小さい頃からアメリカンフットボールに親しんでいるアメリカ人は、総じてラグビーボールの投げ方がうまい。初めて投げてみた僕にはとうてい真似できそうになかった。

  キャッチボールに疲れ、ベンチに座って若い学生たちのゲームを見ながら、僕はアンディとキリスト教について話した。彼はこの世界や死後の世界の事について彼らの解釈を話してくれた。だがまだ僕はキリスト教について十分に理解しているとは言えまい。彼らの言う事が正しいのかどうかもわからない。

  ただ、彼らが真剣に生の意味や死の意味について語るのは新鮮だった。もう何年もこんなことを考えるのをやめていたものだ。僕は、幼い頃のことを思い出した。

  小学校の低学年のころ、死ぬのが怖くてしかたのなかった時期があった。毎日眠れなかった。夜ふとんに入り、自分が死後どうなるのかを思うと、薄暗い天井が遥か彼方まで遠ざかってゆき、暗黒の世界にただ一人でいるような孤独感を感じ、怖かった。

  ある日父に、僕は死んだらどうなるの?と聞いた。父は平然と、意識も肉体も、何にもなくなってしまうんだよ、と言った。まさに死刑宣告のショックだった。幼心で分析した結果得られた、そうであってほしくない最悪のシナリオと一致していた。僕は思った。気がつけば人生の10分の1も過ぎてしまった。人生は短い。これまで8年間の人生を、僕は有意義に生きてきただろうか。これからの人生はどうなるのだろうか。真剣に、純粋に悩んだものだ。

  もう1つどうしてもわからなかったのは、どうして自分だけが自分で、他人はみんな他人かという事だ。今でもうまく説明できないが、説明を試みよう。

   まず前提として、自分は無限の歴史の中で1度だけ登場し、消えてゆくとしよう。なぜなら自分には過去の誰かが自分であったという記憶はないし、という事は、未来に、自分が過去に前野隆司だったことを覚えていて生まれる事もなさそうだからだ。

  では、なぜ僕は1962年に、前野隆司として生まれねばならなかったのか。1000年前に生まれても、今の隣の家の住民として生まれても良かったのに、なぜ今の僕として生まれたのか。

  仮に僕が隣の家の住民だったとしよう。するとその隣に住む前野隆司は今と同じ親の下に同じ遺伝子を持って生まれ、同じ性格と容姿と能力を持ち、同じように育ち、同じように今この文章を書いていることだろう。何しろ物理的に全く同じなのだから。違うのは、前野隆司が僕にとって自分でなく、隣の住民であるという事だけなのだ。

  それともその場合の前野隆司は、物理的には同じであるにもかかわらず僕でないという理由によって僕であった場合と違った人生を歩むのだろうか。

  また、なぜ僕は今の時代に生きているのか。僕は20世紀末の日本に生まれ、たぶん21世紀まで生きるわけだが、なぜそれ以外の時間に自分が存在しないのか。なぜ1000年前や1000年後でなく、今を生きているのか。

  自分が存在しない時間がなぜこんなにも長いのか。

  わからない事だらけだ。

  少し大きくなると、これらの疑問を忘れてしまっていた。たまに思い出して、同様な体験をした事があるかどうか他人に聞いた事がある。しかし過半数の人は、幼少時に死を恐れた覚えがないと言い、今も死を恐れぬと言う。また自分が自分である事に疑問を持たないという。

  僕は死にたくない。永遠に元気に生きて、科学技術の進歩や、人類の盛衰や、他の種の盛衰、はたまた太陽系の行く末や宇宙人の来訪、この宇宙以外に何かがあるとしたらその世界の様子などを、いつまでも見続けていたい。友人に何歳で死にたいかと問うと、60、80などと答えが返ってくるが、僕は8000億歳になっても死にたくない。

  それから、僕は知りたい。なぜ自分だけが自分なのか。

  何が正しいのか。なぜ生きているのか。どうなるのか。幼い頃の純粋な疑問だった。

  こんな疑問への答はあるのか。ないのか。キリスト教の解釈は正しいのか。父が言っていた事の方が正しいのか。わからない。

 いずれにせよ、人が生きてゆく上で関わらざるを得ないはずの、命にかかわる根源的な疑問ではないか。大切な事ではないのか。なのに大人になってから、現実の生活に埋没して忘れてしまっていた。

 哲学者や宗教家ではない凡人の僕だが、このことをもう少し冷静に考えてみたいと思った。



前へ


目次に戻る