あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

14 科学

  彼らと話していて気付いたことは、自分の考えは科学を拠り所としているという点だ。彼らが聖書を基本としているのに対し、僕の反論の原点は科学だった。

  しかし、彼らが言うには科学とて絶対ではない。

  言われてみればそうだ。僕らがあたり前のように受け入れているニュートン力学は、実は近似に過ぎないということが知られている。

  例えばりんごが木から落ちる。その落下速度vは、高校の物理で習ったように、v=gtのように時間tとともに増大する。ここでgは重力加速度である。日本の高校の物理ではあたかもこれが自明の理であるかのように習ったと記憶している。確かに、実際に地球上でりんごを落下させてみると、その速度はこの式に従う。もちろん、空気の粘性によって加速度はしだいに小さくなって行くけれども、この効果とて簡単な式で表すことができる。このように、ニュートンのおかげでぼくらはりんごや自動車や飛行機の挙動をかなりの精度で予測できる。僕の行っている仕事だって、彼の法則を大前提としている。世の中の動く機械は皆、彼の見つけた法則を前提として設計され、動いている、と言ってもいいだろう。

  しかし、ちょっと光や電磁波を扱おうとすると、もはやこの法則は使えない。りんごだってそうだ。あたかも一定値のような重力加速度gが実は地球からの距離の関数であるのはもちろんのこと、時間tだって、実はりんごの速さvに依存する。つまり速さvが変われば時間の経つ速さが変わる。相対性理論によれば、りんごの質量さえも速度vによって変わり、りんごが光速になれば質量は無限大(長さはゼロ)になるのだ。その相対性理論も、現代物理学の最先端、量子力学と矛盾し、部分的には誤りであることが知られている。量子力学も、まだわからないことだらけだ。つまり、科学では根源的なことは何もわかっていないのだ。むしろ、科学とはわかっていない根源的な法則に近付こうとする行為に過ぎないのだ。いや、根源的なことはわかりようがないとあきらめて、経験的にわかった現実を積み上げている行為に過ぎないと言った方が正確だろう。

  極論を言えば、土地は必ず上がる、という経験則がバブルの崩壊によって崩れたように、いつニュートンの経験則、例えばりんごが木から落ちるという法則が崩れたっておかしくないのだ。昔モーゼの行く手の海が割れて道ができた、というような反ニュートン力学的なことや、キリストが病気を直したり生き返ったりという反医学的なことが過去に起こっていてもいいのだ。科学の性質上、科学的に知られている経験則は、それらを否定する根拠にはなりえないのだ。科学とは絶対的な尺度ではなく、現実を観測することによって構築された経験則の体系でしかないのだから。

  アンディやケンと話していて、こんなことを再認識した。再認識というより、初めて実感として思ったという方が正確かも知れない。

  いま述べたように科学が経験的に構築されてきた体系に過ぎないという事実は、理工学の大学を卒業した者なら誰でも知っていることだ。しかし我々はそうと知っていながら、宗教や超能力や占いや運といった科学と相容れない事柄を、非科学的といって否定していなかっただろうか。あるいは逆に科学を絶対的な尺度と信じつつ、以上のような科学と相容れない事柄をも受け入れるという矛盾を犯してはいなかっただろうか。

  原因の1つには、日本の戦後教育の影響があるのではないかと思う。戦前の教育にはアイデンティティーがあった。神の子孫としての天皇家を中心として、神風の吹く国であるという国の理念があった。もちろんこれが正しくなかったことは第二次世界大戦の結果明らかになったのだが。これに対し、現代日本の教育には理念、あるいは哲学がない。あるのは各科目ごとの個別な体系だけだ。すると習うものは個別の体系があたかもそれだけで閉じた真実であるかのような錯覚に陥る。1+1は絶対に2であり、りんごは絶対に落ちるかのように誤解してしまう。

  また、戦後の日本では工業の発展によって国を建て直すことが国是であったから、科学進歩第一主義的教育が重点的に行われることとなったのだろう。日本の大学の工学部の学生数は欧米に比べて非常に多いことからも明らかだ。日本の教育を受けると、科学技術によって世の中が進歩することが最も大切なことのように思える。しかし本当にそうだろうか。経験的体系が進歩して、工業化が進んだとして、それが何なのだろうか。

  日本では先進国と途上国という言い方をする。英語ではindustrialized countryとdevelopping country、工業化の進んだ国と、発展しつつある国である。和訳の際に、工業化が進んだ国→先進工業国→先進国と変化してしまった。単に工業化が進んでいるという事実を、はたして先進と訳してよいのか。途上国とは何だ。ing だけ訳しても何が途上なのか意味をなさない。さらに、英語に対しても日本語に対しても不満なのは、工業化途上国と呼ぶべきものを、単に発展途上国と呼ぶことである。やはり、工業化イコール先進という価値観が世界的に蔓延しているということなのだろうか。

  科学が絶対的でないという立場に立ってみると、こんなことが気になってきた。

  科学が進歩し工業化が進み、世の中が便利になることが本当にいいことなのか。エンジニアとしての僕の仕事は人のためになっているのか。新しい製品を創造したとしても、それに何の価値があるのだ。

  青空のもと木の実を採集し魚を釣って暮らした原始日本人よりも、今の日本人は幸せになったのだろうか。どちらも大差ないように思える。病気が治って長生きできたり、いろいろな所へ行けたり、多くの情報を得られることに、何の意味があるのだろう。

  科学が絶対であるという前提を取り去った時、僕は自分が信じてきた生き方そのものの基盤を失った気がした。



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