あるエンジニアの
バークレー
(アメリカ・カリフォルニア州)
留学体験記

15 グレイトベイスン


bristlecone pine

 ネバダ州は、カリフォルニアのすぐ東に位置する人口120万人ほどの州だ。面積は日本の4分の3。ギャンブルが合法化されており、ラスベガスやリノなどの賭博の町が有名だが、その地勢も特徴的だ。州の南西の端にはバウンダリーピーク、東の端にはウィーラーピークという標高約3900メートルの山があり、その間には南北に走る何本もの低い山々とその間の乾燥した牧草地または荒れ地が延々と続いている。この、山に囲まれたネバダの低地は、グレイトベイスン、大きな盆地と呼ばれている。盆地と呼ぶには余りにも大きな盆地だ。まさにグレイトベイスンである。

  グレイトベイスンナショナルパークは、州の東の端、ウィーラーピークの周りにあるこの州唯一のナショナルパークだ。州の地形からその名を取ったらしい。

  ネバダの退屈な田舎にあり、都市から離れていてアクセスも不便なためか、人々にはあまり知られていない。観光客もまばらで、外国人は僕たちだけのようだった。

  ここの呼びものは、2つある。1つ目は、リーマンケイブスという鍾乳洞だ。実は、この旅行中、3つの鍾乳洞を訪れた。ニューメキシコ州のカールスバッドカバーンナショナルパークと、ユタ州のティンパノゴスケイブナショナルモニュメント、そしてここ。カールスバッドカバーンは、長さが30キロメートルもある世界最大の鍾乳洞だ。最も大きな空間は高さが100メートルもあり、あまりの広さに圧倒される迫力だった。ティンパノゴスケイブは、白樺の美しい森のなかにある小さな鍾乳洞で、ヘリクタイトというペンシル状の繊細な造形が美しかった。

  ここリーマンケイブスもかなり小さな鍾乳洞だった。僕は日本では山口の秋芳洞と岡山の井倉洞に行ったことがあるのだが、ここは秋芳洞よりずっと小さく、井倉洞と同じような規模だったかと思う。規模が小さいためか、ここでは30分おきに出発する90分程のガイド付きのツアーによってしか中を見ることはできなかった。洞窟は美しかったが特に個性的な印象はなかった。それよりも、一緒にツアーに行った10人程の陽気な老紳士淑女のことが印象に残っている。2人の日本人以外はすべて白人で、その多くはリタイアしているであろう年齢の人たちだった。彼らは陽気でおどけていてかわいかった。奥までいってUターンした後、30分後に出発したツアーの人たちとすれ違う時、もう俺たちは10年もここにいるんだよ、などというくだらないジョークを連発する姿が。沈黙は美徳といって育てられた日本人にはこうはいくまい。彼らは、日本人にここを宣伝してもっと観光に来るように言っておいてくれ、と僕に言った。そこで今紹介している次第である。

  もうひとつの呼び物は、ブリスルコーンパイン (bristlecone pine、直訳すると剛毛の松笠を持つ松)という植物だ。何と3000から5000年も生きる、世界最長寿の生物のひとつだという。

  標高3000メートルの地点に、公園内で最も標高の高い駐車場がある。そこから山頂まで歩いて登れるトレイルが続いている。このトレイルを1時間程登ると、ブリスルコーンパインが群生している場所に出る。

  小石が敷きつめられた斜面に、あたかも枯れかけているかのような木が生えていた。ブリスルコーンパインだった。奇妙な形をしている。幹は太く、ねじれている。黒い表皮が割れて茶色の内部が露出し、そこから別の枝が生えている。葉は枝の上の方に少しだけついている。そして、このような年老いた木の横にはたいてい若い木が生えている。こちらは普通の丸い幹を持ち、枝は葉を茂らせている。

  よく見ると、年老いた木と若い木は根元でつながっている。2つの木は同じ木であるらしい。どうやらこの植物は一つの幹が古くなると別の新しい幹を生やすことによって長生きしているらしい。

  あたりは寒かった。気温は1年中摂氏0度から5度程度だという。ちょうど冷蔵庫の中のようだ。食べ物を保存するのにちょうど良い温度は、植物の成長を遅らせ、活動を鈍らせるのだろう。ブリスルコーンパインは、細く長く生きているのだ。

  それにしても5000年とは長い間生きてきたものだ。紀元前3000年、人類最初の王国がエジプトにできたころから、ずっとここに根を下ろし続けてきたのだ。人間の60倍から80倍もの長い時間を、じっと過ごしてきたのだ。寒風の吹く、人里離れたこの地で。

  一人の人間の能力を遥かに越えた生物が、この地球上には限りなくいる。ブリスルコーンパインもその一つだ。

  彼らと接する時、人は、人の生が小さくはかないことを思い知らされる。人は、偉大な大自然のほんの小さな一部分なのだ。耐えず流れ続ける偉大な潮流のほんの一部分に過ぎないのだ。

  ところが都会に住む現代人には大自然に接する機会があまりに少ない。するとあたかも人は大自然と無関係に生きているかのような錯覚に陥る。自然を征服し、自然から超越した存在であるかのような。

  だが、そうではない。自然は人の母なのだ。人を生み、育て、見守ってくれている母なのだ。

  アメリカでは母に会えた。静かに優しく人を包む、大きな大地に。そして兄弟たちに会えた。力強くその生を全うする様々な動植物たちに。

  人は本来、彼らと共に生きてゆくのが自然なのだと思った。(1993年夏)



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